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メガネ族の人

近視は遺伝するらしい。保健室の先生が言っていた。わたしは生活習慣のせいだと思っていたのだが。

わたしは小5の時から超ド近眼で、メガネがなかったら生活できない。コンタクトレンズを使っていた時期もあったが、老眼が始まった頃からコンタクトレンズは使えなくなってしまった。今では遠近両用のコンタクトもあるらしいが、わたしにはもうコンタクトレンズのケアをする余力がない。

メガネをかけ続けていると、メガネ顔になってしまう。これを『メガネ族』の顔と仮定しよう。メガネを外したら、こっちを向いていてもこっちを見ていない目をしている。「あー、今見えてないんですよ」と必ず言う。


メガネを外したら意外にも美少女(美男子)で恋に落ちた、という漫画は山ほど見てきたが、わたしにはちょっと違和感がある。メガネ族の人が、スッとメガネを外した時には「見慣れない顔」がそこにあるはずだ。それで「キュン」となる人もいるのかもしれないが、わたしは「へえ、こんな顔なんだ」と思うにとどまっている。ただ、その人がコンタクトレンズに変えてしばらくすると、別の顔になっていく。見慣れてくるというのもあるが、『非メガネ族』の顔になる。そしてようやく「カッコいいじゃん」とか思う。

…と考えていたのだが、そう言えば例外もあった。
高校時代に、チョウタロウくんという同級生がいた。みんなが「チョウタロウ」と呼ぶのでわたしもそう呼んでいたが、同じクラスになったことはなく、特に親しいわけではなかった。彼こそがメガネ族の代表みたいな人で、オーソドックスな黒のフレームのメガネをかけていた。レンズは分厚くて牛乳瓶の底という描写がぴったりだった。そして、穏やかで、礼儀正しく、誰に対しても呼び捨てなどせず、デスマス調で話した。ちょっと変わった感じの人だったが、わたしには「天使」に見えた。高校生男子特有のモッサいニオイとか、学食でガツガツと大盛り定食をかきこむとか、女の子にモテたい一心でカッコつけるとか、そういうのは全くなくて、いつも襟や袖がきれいな白いカッターシャツをきちんと第一ボタンまでとめ、背筋がまっすぐで、「あ、こんにちはー」とにこやかに挨拶をしてくれた。高校生当時、心が荒んでいたわたしには廊下を歩いてくるチョウタロウくんが眩しかった。それは、俗世間で這いずり回るようなわたしが近づいてはいけないような神秘的なイメージだった。

ある日、放課後の美術室に、なぜかチョウタロウくんがいた。どうやら美術部の友だちを待っているらしく、「ここいいですか」と木製の傷だらけの椅子を指差した。「いいと思います」とわたしが言うと「失礼します」と一礼して座った。そして次の瞬間、彼はメガネを外し「あー、今日は目が疲れました」と言って目頭を指で押さえた。わたしは「ひっ」と息を飲んだ。

あの牛乳瓶の底メガネを外した彼は、三浦春馬ばりの美男子だったのだ。超太郎だったか超太朗だったか忘れたけど、とにかく彼の名前に「超」がつくのは必然だと思えた。まつげはエクステつけてるのかと思うくらいにバッサバサで長かった。黒縁のメガネで隠れていた目元と鼻筋は美しく整い、色白で透き通るようだった。ひー。そんな顔だったのか。のび太みたいな顔だと思っていたのに、三浦春馬だったとは。もちろん彼の目には何も見えていないようで、明らかにメガネ族の顔だった。しかし、それを差し引いても彼の顔は美しかった。

ところが恋には落ちない。なぜなら、チョウタロウくんは、ますます雲の上の人になったからだ。畏れ多くて近寄りがたくなった。そして次の瞬間、彼はまたメガネをかけ、いつものチョウタロウくんに戻った。「濱田くん、遅いですねえ」と言って、腕時計を見た。

わたしは思い切って聞いてみた。「チョウタロウくんって、将来どんな仕事に就きたいんですか?」彼はきちんとこちらに向き直って「ぼくは福祉関係の仕事を目指しています。お年寄りとか、障害のある人たちと向き合って働きたいんです」と微笑んだ。天使かと思っていたら神かよ。わたしはなんと答えたらいいかわからなくなって「へえ、すごいね」としか言えなかった。

チョウタロウくんが今どこでどんな仕事をしているのかは知らない。数年前に同窓会で見た同級生の男性たちと同じように歳をとり、同じようにおっさん化しているんだろうとは思う。世間の荒波に揉まれて人が変わったようになったかもしれない。ただ、わたしが美化しているだけかもしれないが、高校時代の彼の礼儀正しさや清廉な佇まいが、今でも思い出すたびに、わたしの背筋を伸ばしてくれる。

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