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立志式とコミュニケーション能力

おととい、ムスメの立志式でPTA会長の言葉に、自分の生き方を考えさせられたのだが、実は、他にも考えさせられたことがある。

生徒の一人ずつが将来についての志(こころざし)を作文に書いていて、それを読む。ムスメのクラスで多かったのは、「医療従事者」「スポーツ選手(ラグビー・野球)」「保育士」「IT関連」「ウエディングプランナー」など。そのほか、「イラストレーター」「歌い手」「検事」「ダンサー」「メイクアップアーティスト」などを志す人もいた。何を志望するかを決めていない人もいたが、多くは「人の役に立つこと」「人を救うこと」「人を笑顔にすること」を志していた。

そして「そのためには」と続き、「今の自分には課題がある」と言い、自分の欠点を並べる。これらを克服し、自分の将来をよりよいものにしたい、と言うのだ。それはそれで立派だとは思うが、自分にはこんな長所があってそれを伸ばしたい、活かしたい、と話す人はいなかった。

勉強を頑張る、と言う人も多かったが、一番多かったのは、「自分は、コミュニケーション能力が低いので、そこを克服したい」だった。「人前で話すことが苦手です」「人見知りをします」「思っていることをうまく伝えられません」。そのために、もっと人と話すことや、いろんな人と接する機会を増やしたい、と言う。まじか。中学生よ。みんながみんな、人前で話す仕事をしなくてもいいし、コミュ力が低くてもやれることはある。こうじゃないとダメだ、なんて思わなくてもよくないか。

中学生の目には、まだ見えない「理不尽」が世の中にはたくさんある。その理不尽に遭遇した時、コミュニケーションスキルが役立つことは間違いない。生き抜くためには「防具」や「武器」が必要だということもわかる。広い世界へ、意識が外へ外へと向かっていくのもわかる。理想を持ち、それを実現する努力はすばらしいと思う。でも、自分の中にあるものを認め、じっくり向き合って味わってほしい。

勝手ながら、どうかあの作文が「よそゆき」の言葉でありますように、と思った。本当の自分の志はまだ不安定で、ハッキリと言葉にできないものの中にあってもいいのだ。明確な目標ばかりが尊いわけではない。10代の半ばには、モヤモヤとわけのわからない時期が、短くても長くても、あるはずだ。そこをすっ飛ばして「コミュニケーション能力が」とか、言わんでもいい。

答えがすっきりと出てくる問題ばかりじゃないのだ。悩むし、傷つくし、迷う。そんな時のために、友だちがいるし、先輩がいるし、先生もいる。兄弟だって、親だっている。人に頼れなかったら、本がある、音楽がある、映画も、芝居も、ラジオもある。きっと、芸術やスポーツが助けになる。

おばちゃんは、40人のクラスみんなが優等生の作文ばかりで面食らったよ。拍手しながら心の中で「無理すんなよー」とずっと思っていたよ。

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