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きっちりと生きる

蜘蛛がまだ、ベランダにいる。すでに1ヶ月をすぎた。

女郎蜘蛛の寿命がどれくらいかは知らないが、晩秋ごろに抱卵して、産卵してもなお、しばらくは生きると書いてあった。卵は越冬するが母体は死ぬ。

この1ヶ月の間、蜘蛛は定位置を決め、そこからほとんど動かないように見えた。わたしがいないときに動いているのだろう。獲物の小さな虫たちが、巣の中心近くに、縦一列に並べてあり、それが増えたり減ったりしていた。10月初旬のまだ気温が高かった頃は、獲物の数が多かったが、今ではもう、まばらにくっついているだけだ。

気温が急に低くなった今朝、生きているのだろうかと蜘蛛の巣に手を触れてみた。一本の縦糸を指でちょいちょいと弾いてみる。以前、同じことをしたら、ワシャワシャと長い足を動かしたので、そうするかと思ったが、今回は2本の足の関節をくい、と曲げただけだった。そろそろ弱りはじめているのだろうか。それとも気温の低い朝は動きが鈍いのだろうか。

あれほど完璧に見えた美しい巣も、ずいぶんたわんできた。10代の肌のように、ピンと張って弾力に富んでいたはずのそれは、今や50代どころか、70代、80代のお肌のように、皺んでいる。ふわりふわりと風をはらみながら、まるで呼吸するように揺れていた。ところどころほころんでいて、まるであばら屋のようだ。

動物も植物も、不慮の事故や病気でもない限り、命を全うする。生まれてから死ぬまでをきっちりと生きるのが、命のあり方だとすれば、人間は特殊な生き物だ。秋空に揺れる蜘蛛を見ながら、つくづくそう思う。

それにしても、だ。わが家の軒先のヤツは、抱卵しているようには見えない。腹部に当たる部分は、シュッと鋭いシルエットで、写真で見たぷっくりと腫れたような膨らみはない。わたしが見てない時に抱卵してすでに産卵したのかもしれないが、毎朝、毎夕、洗濯物を干したり取り込んだりする時に見ているわたしには、そこまでの変化はないように思う。

蜘蛛の子は、まどいという集団生活ののち、糸を風に乗せてバルーニングで旅をし、新しい生活を始める、と書いてあった。そうやって流れ流れて来たのだろうが、オスに出会う機会がなかったのか、それともオスをバリバリと食べてしまったのか。お一人さまで生き、このまま死んでいくのだろうか。

寂しいような気もするが、それもまた自然の一部であって、人間ごときが傲慢にもカワイソウなどと思うことではないのかもしれない。

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