また夢で逢いましょう

「また夢で逢いましょう」
「えっ?」

目が覚めると、自室だった。
夢か。そう思うと同時に、鮮明だった夢の内容が手のひらから零れ落ちていく。待ってくれ、と思った時には粗方の記憶は抜け落ち、名前も知らぬ眩しい女性の笑顔だけが色鮮やかに瞼の裏に焼き付いていた。
「ざーんねん、忘れた。まあ、いいか」
そう独り言ちると私は鳴る前だった目覚ましを止め、いつも通り出社の用意を始めた。入社して三年目、仕事も慣れ後輩もでき、なんとなく社内のパワーバランスもわかってきた時期。とはいえ人より並外れて出来ることもなく、このまま数十年仕事に追われ続けるのかと現実を直視できなくなりつつある。やってみたいことは増えてもやる気にならず、やっても大して続かず、世界はいつの間にか色を失っていた。
いつも通りの朝、いつも通りの通勤路、いつも通りの仕事。家路につく頃、昨日と差異を見出せない今日を過ごすうちに、私は夢のことをきれいさっぱり忘れていた。夜ご飯はコンビニ弁当で済ませ、動画サイトのランキングを流し見する。ちょっとだけゲームをすると、明日のスーツの準備をしてから就寝。娯楽でさえもいつもと違うことをやらなくなって久しい。
そして、また夢を見た。昨晩と同じように彼女は微笑みかけてくる。黒のワンピースを着た彼女は、絵画からそのまま出てきたような美しさをしていた。
流石に同じ夢が二日も続くことに私はちょっとした違和感を覚えた。仕事の空き時間にネットで夢診断のサイトを軽く調べてみたものの、夢の話がわかるはずもなく。
「やっぱりわからないか。まあそうだよなあ」
幸い明日は休日であることだしゆっくり眠ればいいか、そうだ、起きたらお気に入りの喫茶店へ行こう、と努めて思考から追い出すことにした。
その夜も、三日連続で夢を見た。矢張り、彼女は静かにほほ笑むばかりである。銀にも白にも見える髪がキラキラと輝き、水色の瞳は柔らかな光をたたえている。ふと、かすかに紅茶の匂いが香った気がした。
目覚めて、いよいよ薄気味が悪いはずの夢が心地よくをも見えるのは、彼女の纏う人ならざる雰囲気故か。いずれにせよ現実ではない何処かから手招きされているように感じる。思索にふけるのであれば、予定通りに行きつけの喫茶店へ行くのがいいだろう。そう考えた私は、十分ほどで外行きの準備をして出かけることにした。
行きつけの喫茶店は、私の住むマンションから歩いて十分ほどの所にあるこぢんまりとしたお店である。年配の夫婦が切り盛りしており、珈琲を飲みつつ静かに読書するのにぴったりの密かな私のお気に入りだ。まあ、今日は夢のことを考えるのが主目的で本を読むわけではないのだが。と、私はそんなことで頭をいっぱいにしながら、横断歩道を渡り一本外れた先にある喫茶店へと足を踏み入れた。

***

「マスター、えっ?」
そこは喫茶店ではなかった。
いや、行きつけのあの喫茶店ではなかったというだけで、果たしてそこは喫茶店であった。落ち着いたピアノ曲が流れ、紅茶と紙の匂いがする。見たことのない景色。いや。カウンターにテーブルがあるのはよくある喫茶店と同じだ。だが広く、そして高い。壁にぎっしりと見渡すばかりの本棚。本棚は上へ何階分にも広がっている。目線をあげると、なんと浮いている本棚がある。立体映像には出せない荘厳で重厚な雰囲気。まるで海外の聖堂のような。声が出ぬまま、私は阿呆面をしながら入り口でしばらく立ち尽くしていた。いや、惚けていたのは雰囲気に圧倒されただけではない。私は、この建物を見たことがある。
どうして忘れていたのだろう。周りを見渡す度、記憶がよみがえる。ここは、夢の中の世界そのものであった。
ならば。
カウンターの奥には、矢張り彼女がいた。思ったより小さい。白いボブカットと対照的な黒のワンピース、それらを彩るシルバーのアクセサリー。夢とまったく同じ顔で、カウンター越しの彼女は微笑んでいた。その人ならざる美しさにまた見惚れる。私はきっと、さっきよりさらに締まらない顔をしていただろう。
「ようこそいらっしゃいました。初めての方ですね?」
鈴の鳴るような声に私ははっと我に帰る。初対面の人の顔をまじまじと見るなど、失礼なことをしていたことに気づく。しかし声が出ずにえ、とかう、とか言いながらどもってしまうと、彼女は笑顔を少し苦笑へと変えた。
「ここはカフェ併設の本屋、うたたね書店です。こちらへ入ってこられたということは、喫茶店へ一休みしに来たのでしょう。カウンターへどうぞ。ここのことも、少し説明いたしますよ」
「あ、ありがとうございます」
本当は間違えましたと言って出ていくつもりだったが、説明をするという言葉に、それならと了承の意を返す。もうこの不思議空間に一歩足を踏み入れてしまったのだ、しばらく過ごしても同じことだろう。元々ファンタジーはよく読むし、浮かんでいる本棚の仕掛けも気になる。夢のこともきっとわかる。私は誘われるままにカウンターの席へと腰かけた。
「メニューをどうぞ。今月のおすすめは、私の一等好きなアッサムのミルクティーですね。丁度ファーストフラッシュが出始めたので手に入れてみたんですが、これがとてもいいものなんですよ。ストレートでも美味しいですが、私はやっぱりミルクティーがおすすめです」
実は私はどちらかというと珈琲党だ。数少ない趣味として、休日は自分で粉を挽いて淹れることを楽しんでいる。しかし、活き活きとおすすめの紅茶について話す彼女に、入ったときからの紅茶の香りも相まって、それらにどうしても惹かれた私は紅茶のおすすめを一つお願いしますと注文をした。
「かしこまりました」
彼女はてきぱきと紅茶を淹れる準備をする。お湯を沸騰させ、ポットとカップにお湯を入れて捨てる。茶葉を入れてお湯を注ぐと、優しい気持ちにさせてくれる何とも言えないいい香りが広がる。蒸らしている間に、彼女はこの書店について少し話をしてくれた。
彼女がこの書店でバイトをしているということ。世界中の素敵なものを知ってもらうためにこの書店があるということ。そして、この書店がどこでもない、夢と現の狭間にあるということ。ちなみに本棚が浮いている仕掛けについては、それは秘密です、とのことだった。
「まずは香りをお楽しみください」
注がれた紅茶は濃い赤橙色。珈琲はともかくティーバッグのお茶ばかり飲んでいた私にはいい香りだということしかわからない。だがそれは、驚いてばかりだった心がすうっと落ち着いていくような香りであった。次いで、一口カップを傾ける。ああ。荘厳な雰囲気の店内に飲み慣れない紅茶、そして初対面の美しい女性と、思わず体に入っていた余分な力が抜けていく。人肌のミルクを入れてもう一口いただくと、本当に不思議なものである。重厚な雰囲気は落ち着いたものに変わって感じられ、温かなミルクティーをゆっくり楽しめばいいという気分になっていた。
私は、しばらく紅茶を楽しみながら彼女と話をした。彼女は聞き上手であったが、それ以上に話し上手であった。話の引き出しが多く、しかもわかりやすく、そして自分の言葉で話すのだ。自身よりもしっかりとした物言いに、ひょっとすると見た目通りの年齢ではないのかなあと失礼なことすら考えてしまう。そんな時に折り悪くドアチャイムが鳴り、私は小さく変な声をあげてしまった。
「こんにちはー、あらー、先客ですかー?」
こぼしそうになったカップをソーサーへ置き、開かれた扉へ目をやると、そこには大きなはりねずみがいた。いやいや、確かに本棚は浮かんでいたが流石にそれは、ご冗談でしょう、と目をこすってみたが、矢張りはりねずみは消えなかった。彼女(彼女だろうか?)はしゅたっ、と手を挙げながらこちらへ近づいてくる。思ったより動きがやたらと素早い。カウンターの近くまで来ると、彼女は私の隣に陣取った。その過程で椅子が座りやすい高さに縮んだりカウンターの高さに合わせて伸びたりしていたわけだが、そのときにはもう、私は驚くことを諦めていた。
「新しい常連さんですか?もしかして今日のイベント目当てです?」
「いや、実は私は初めてでして」
「じゃあ是非常連さんになりましょう!丁度今日は朗読会があるんですよ!」
なかなかぐいぐいくるはりねずみだなあ、針で座面に穴が空いたりはしないのだろうかと思いながらも朗読会という響きに興味を抱く。
「朗読会、ですか?」
「朗読会です。うたたね書店では不定期に本の朗読会をしていて、結構色々な人外が集まるんです、あなたとお話ししていた彼女がやっているのですが、結構人気ですよ」
「へえ、え、人外?」
「失礼しました。常連さんと呼ばないといけないですね。後半刻もすれば始まるので、三々五々皆集まってくると思いますよ」
腕時計(!)を見ながら彼女が言う。すると、またドアチャイムが鳴り今度は複数の人影が入ってきた。活発そうな赤い縦ロールに大人しそうな紫髪の少女二人と、そして十字架、最後に卵。何ともまあ奇妙な取り合わせである。足も生えているし。はりねずみが自分のことを棚に上げて人外というのもむべなるかな、といった感じだ。さもありなん。はりねずみはその一団を呼び寄せると、楽しんでくださいね、とこちらへ軽く会釈をして近くのテーブルへと陣取った。
それからはもう、真昼にもかかわらず百鬼夜行という表現が頭に浮かぶ状態であった。店員の彼女に訪ねてきた一人一人が挨拶をしてはめいめい好きに飲み物を持っていく。丁度金髪ポニテの女の子が何か星のようなものを渡していたが、あれがお金なのだろうか。途端に不安になったので、私は近くにいた茶色いうさみみ少女に尋ねてみる。
「もし、あそこで渡しているお金みたいなものは何なんですか」
「ああ、あれは星のかけらですよ」
「星のかけら?」
「まあ、お金みたいなもんです。お話を聞かせてもらう対価のようなものですね、もちろん普通のお金も使えるので心配しなくても大丈夫です」
話を聞いても星の正体はわからなかったが、少なくともお金が払えなくて困るようなことにはならないらしい。店員の彼女へと顔を戻すと、今度は丁度土器が彼女とハイタッチしているところだった。うにょーんと。

そしてテーブル席が埋まり、空中に浮かんでいる椅子の主もあらかた決まった頃。彼女が席の間を通り、演台へと上がる。
「ご来館の皆様にお知らせいたします。当館では、ペットボトル等密閉できる容器でのみ、飲食物の持ち込みを許可しております。皆様のご協力に感謝いたします。さて、皆さんこんにちは。初めましての方は初めまして、私はここ、うたたね書店で書店員をしております千歳ゆうりと申します。今日の題目は以前お伝えしました通り、宮沢賢治の注文の多い料理店です。宮沢賢治は今でこそ多くの人に親しまれておりますが、生前は無名と言ってもいいほどで、唯一生前に出版された短編集の名がこの注文の多い料理店でした。それに収録されている、どんぐりと山猫や、月夜のでんしんばしらなどは昔読んだ方もいらっしゃるのではないでしょうか。さて。それではお聞きください。」
彼女は、良く通る、落ち着いた声で朗読をする。地の文、紳士二人に、山猫たち。それぞれが読み分けられていて、しかしどれも彼女の声である。紳士たちが疑いもなく注文に応えていく様はコミカルに、山猫たちが二人を誘う様はおどろおどろしく。彼女の聴衆は、姿かたちはばらばらであったが、皆一様に聴き入っていた。最後の一文が読み終わるころには、私達はすっかり物語の中にいて、猟師たちと共に山を下りてきたのだった。
しん、と一瞬の静寂に、どこからともなく鳴り始める拍手。気づいたときには私の手も自然と打ち合わされていた。なかなか鳴りやまない拍手が終わると、今度はこの童話に対する彼女の感想が述べられる。これは私が後から聞いた話であるが、薄桃色の髪をした綺麗なお姉さん曰く、この朗読会は朗読と彼女のお話の二本柱らしい。その回における朗読に関連して彼女が考えたことや、多くの人に伝えたい素敵なことを話す、「閑話休題」というコーナーが設けられているという。今演台で話している彼女も、先代がしていたこの「閑話休題」を聞き、自分でもやってみたいと後を継いだそうだ。そうこうしているうちに彼女の話は宮沢賢治の他作品から彼の世代に刊行されていた雑誌「赤い鳥」、そしてそれに掲載された作品と彼の作品との違いなどへとどんどん広がっていったようだ。適宜ここまでの話をまとめますと、と簡単に話を振り返ってくれるので話についていきやすい。しかも、この「閑話休題」の間は皆が疑問に思ったことが演台の彼女の下に伝わるようになっているようで、それを彼女が拾い上げてわかりやすく解説し、そこからさらに新たな話題へと話は膨らんでいった。その過程で自分の地平が広がっていく楽しさときたら、親に肩車されて見える景色の変わった子供のようで。大人になった私にとっては、最近はとんと縁のなかった体験であった。
「というわけで、本日のお話「閑話休題」は以上となります。お楽しみいただけましたでしょうか。お相手はうたたね書店の千歳ゆうりでした。ありがとうございました」
再びの拍手。彼女をねぎらうお疲れ様という声が飛び交う。ふわりと彼女の下へ飛んでいく花束は、一体誰が贈ったものだろうか。彼女はそれを受け取ると、笑顔で手を振りながら演台から下りて行った。
その後はわいわいがやがやと人外たちの話が好き勝手に始まる。朗読について感想を述べるもの。仲間内で小朗読会を始めるもの。今日の話題について私はこう思う、いやそこはこうだと議論するもの。その一角には書店員の彼女も加わっていた。手持ち無沙汰になった私は、最初に声をかけられたはりねずみの一団の所へ行ってみることにした。すると、彼女たちはなんと書店でテーブルゲームをしているようだ。声をかけると、赤いツインテールの少女が席を変わってルールを教えてくれた。何でも、大富豪のように場に出た単語より強い単語を順番に出していくゲームらしい。時々飛び出す変な単語に笑いながら一頻り楽しむと、今度ははりねずみが書店の中を案内してくれた。この書店では本の他に文具やレコードなども扱っているらしく、書店で流れている曲も購入できるようだ。それから、朗読会で読まれた本一覧、なんてコーナーもあった。なんと、モモやらドグラ・マグラやら、やたらと長い本も朗読されているようだ。さて一体何時間朗読会をしていたことやら、読む方も聞く方も大変であろう。一通り中を見て回り、色々なものに目移りしていると、時間はあっという間に過ぎていった。
何時の間にか日も傾き、名残惜しいがそろそろお暇しようとレジらしき所に行くと、そこには書店員とハイタッチしていた土器がでん、と鎮座していた。話はできるのだろうかと不安になりつつもとりあえず伝票を見せると、彼女は普通にしゃべりだした。
「あら、お客様初めてですね?オーナーの土器です。うちの店員の紅茶は美味しかったでしょう?もしよかったら御贔屓にしてくださいな」
「本当に美味しかったです。是非また来たいと思っておりますが、でもどうやって来ればいいのですか?」
「ここを探してみてください。ヒントはこれだけですよ」
「うーん、そうですか・・・」
何とも要領の得ない話である。だが、今日一日過ごして、なんとなくその意味がわかった気はする。
ちなみに、お金は普通に支払うことができた。土器はぐんにょりと腕らしき部分を伸ばし、それを受け取ると自分の中へと放り込む。ちゃりんちゃりん、と小気味のいい音が鳴った。顔もないのにニヤリと笑った雰囲気を醸し出す土器に私はげんなりとしつつ、手を振りながら喫茶店を出た。ドアを開け一歩踏み出す。

***

私はいつの間にか家の前にいた。
夢か。そう思うと同時に鮮明だった今日の記憶が手のひらから零れ落ちていく。粗方の記憶は抜け落ち、しかし書店員の眩しい笑顔は色鮮やかに瞼の裏に焼き付いている。彼女の名前や、今日話したはずの人外たちの顔は思い出せないが、きっとまたどこかで会えるはずだと強く思う。

色づいた世界は素敵なもので満ちているのだから。


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