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最近のnoteについて思う

noteが好きだった。

始めたころは、まだマイナーな媒体で、書くのが好きなわたしに親友がここ教えてくれたのだった。
他のブログやTwitterみたいに、芸能人のブログや広告やどうでもいい話、いっちょ乗じて商売してやろ。という人が少なく、単に文章を書くのが好きというそういう雰囲気がここにはあって、レベルの高い文章が並び、それが良かったし、刺激にもなったものだ。

何かビジネスに繋げるための手段としてわたしはここを使っていない。
(別に誰かがその目的で使おうといいのだけど)
だからいいねやフォロワーの数はどうでもいいことなのだ。
書きたいことが書ければ、それを読んで何か思ってくれる人がいたら、いいねやフォロワーの数は、どうでもいいことのはずなんだ。

いいねが欲しいなら、賞賛が欲しいなら、他に手はいっぱいある世の中だ。
皆が好むようなものを書いて、好むような言い回しを使う。
逆に過激なワードは控えて、当たり障りのないことがいいのかもしれない。


いい文章とはなんだろう。
いい文章とは書き手の情熱が入り混じったものだと誰かが言った。

書き手の伝えたいことが溢れているものだと。


noteも利用者が急激に伸びて、見ていて疲れるものになってきた。
最近は、情報量が他のインターネット媒体と同じく多すぎる。
例えばTwitterで言うと、フォローしている人がいいねしたツイートだとか、おススメだとかが勝手に出てきたり。

いちいちそれに気を留めず、読みたいものだけ読んでいればいい。
そう思うのだが、トップページの文字量も多さにも疲れてしまうようになった。
さらにサークルを作って仲間を増やそう的なものも、あまり好きになれない。自分の勝手なイメージでは、noteには孤高の作家が似合う。
しかし俗にいう「意識高い系」がは蔓延るようになってしまった。意識高い系は常に意識を高く持っていろんなところにくっついてくるのだ。
意識高い系だけじゃない。だれかとやたら「繋がりたい」人も日に日に増殖している。


話は少し逸れるが、
昔から、優しい言葉を自然をかけられる人に憧れていた。
ちょっとした会話でも、その人を気遣う言葉が普通に言える人だ。

「今日はいい天気ですね。○○さんにとっていい日になりますように。」とか、
「○○さんみたいに素敵な大人になりたい」とか、面と向かって言える人だ。

人の気分を良くするのが得意なんだろうなあと思う。
わたしにはできないことのひとつ。

でも最近、そういう人も多すぎる。
中身のない、外側の言葉だけ気持ちのいい人が。
なんだか少し気持ちが悪い。なぜこんなに(特に20代くらいの若い子に)薄っぺらい子が多いのだろうかと。
薄っぺらいというと語弊がある。外面がいいというべきか。(だって別に自分が重厚なわけじゃないし)
これも受ける情報量の多さが関係しているのか。
いいねの数がその人の価値になるため、好かれるように行動しているようにも見える。

受けた情報から自分で何かを考え自分の意見を導き出さず、そのままを受け入れ発信するようになってしまっているのではないか。

別に自分が深い人間だなんて思わない。
ただnoteもその他のメディアと同じようになってしまったら、私はここに魅力を感じなくなるだろう。

観光に行くなら、京都の金閣寺じゃなくて銀閣寺
新宿より三茶的な「リアル」な魅力があったのに。(伝わるかな。)





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