ノンタイトル ~今~

わたしが死んだら、体全て臓器移植に使って、生きたいけど生きられない人のために使ってもらいたい。
検体に使ってもらって、未来の医療に役立ててもらってもいい。
そのあと残った骨は、どうか沖縄の島の海に撒いてください。
お墓には興味がないし、好きな場所に漂えるならその方が幸せです。

この世に生まれた意味は、もらったものを他の人に与えていくことではないかとわたしは思う。
だから誰かを助けたいと、知識や自分の能力を誰かのために使いたいとそう思うのは、わたしが子供の頃に親や家族や親せき友達からたくさんのものや思いを授かったからだと思う。わたしは確実に愛されていたのだ。
人のためにもらったものを返そうと思えるのだから、そういうことだろう。
細かい嫌なことや理不尽は数多にあろうと、わたしはたくさんのものをもらって生きているのだ。
体だって、わたしの持ち物ではない。宗教によってもいろいろな考えがあると思うけど、わたしは、生きている今は自分の責任でそれを管理しているけど、命が尽きたらもう誰のものでもないと考える。だから別の人の役に立つように使ってもらうことが、自分の生きてきた意味であると思うのだ。ちなみに今現在私はどの宗教も信仰してはいない。

でも実家はある宗教を信仰する家族だった。(今も)
小さなころから祖父が信徒の人に説く話は、面白かった。祖父はキリスト教でいう牧師さんみたいだった。
尊敬できる人だった。でもわたしは宗教を世襲で継ぐということをしたくなかった。心から信仰していないものを継ぐのは、無理があると思った。思想を持つのと、宗教法人として管理するのは別の事だと思う。
そういうわけで、次の世代は誰も継がないことになるだろう。現在のこんな情報社会で自分の好きに生きられる時代に、宗教というのは少し時代に合っていないのかもしれない。カトリックの信仰心の厚いここメキシコでも、若い人の中では宗教離れは加速している。もちろん、特定の宗教を信じる人をわたしは尊重するし、それぞれの宗教の誕生の歴史や教え自体にはすごく興味がある。
時に自分が困ったとき、導いてくれる教えもあった。
今の時代の人間は、自由を好む人が多く、特定の宗教に属して、しなければいけない行事やタスクを持つことを望まない人が多いのだろうか。
世界の各主宗教が誕生してもう何千年何百年と経っているから、教えも湾曲し、本来のものとは解釈や理解が変わってきているところもあると思う。
宗教自体は素晴らしいが、それを間違った解釈や大義名分で、悪用する人間の未熟さよ。
わたしはそういうものは信じたくない。自分が理解した上で賛同できるのもしか信じたくない。信頼する人の説く言葉でも、いやそうは思わないってことだって多々ある。
要は自分の中に、自身の真理を持っているかが大事なんだとわたしは思う。
結局は、自分自身なんだよな。
どんな悩みもそこへ結びつく。
どこへ行ったって、誰といたって、どんな環境でも、自分の真理が自分の世界を創っていて、だから人を変える事より自分を変える方が簡単だって、それは真実なんだろう。

なんとなく心にあることを書いてすっきりしました。
テーマはない駄文です。