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「主義」流行り

ここ最近、世界ではいろいろな人権運動が盛んに行われるようになった。
昔からあったものだろうが、インターネットの普及で、それがより早く知れるようになり、広まるスピードも、量も多く感じる。

Netflixの国内・海外ドラマには必ずと言っていいほど、同性愛者、トランスジェンダーが登場している。
今年の3月はメキシコでも大きな女性人権運動が行われた。
人種差別デモ運動が暴動化したのも記憶に新しい。

わたしは女だが、いわゆる「フェミニスト」ではない。同性愛者も人種差別も特に支持も反対もしていない。
でもそれは、女性や同性愛者の人権を軽視していいと思っているという意味ではないし、人種差別に賛成している訳ではない。

どうしてNetflixにここまで不自然なほどに同性愛者のキャラクターが必ずいるのか、フェミニストたちの運動・思想の内容に対して、また、人種差別撲滅の難しさ(なぜならわたしも人種で「区別」してしまうことがあるからだ)を考えると、世間に広まり一人歩きしつつあるそれらに、バカのひとつ覚えのように賛同するのは憚れる。

きちんと本質を見なければいけない。
女性を、黒人を奴隷のように扱ってはいけない、それは当たり前だ。

人類は皆平等です。そう習ったから、親に教わったから、
それだけで安易に「主義」と名乗って良いのだろうか。

どちらかに偏れば、どちらかを否定することになる。
ポジティブシンキングが流行ったとき(今も)にもそうだった。
ネガティブの反対は、ポジティブじゃない。
ネガティブの反対は、ネガティブも受け入れることだ。
とわたしは思う。
だから、男性至上主義の反対は、女性至上主義では勿論なく、また男性至上主義を否定することではないと、わたしは思う。
それがわたしなりの、フェミニズムに対する考え方だ。異論はあるだろう。
フェミニズムが変な形で派生して、本来の意味を成さなくなる事が、わたしは怖い。
男性至上主義に反対する振り子が、それを傷つけるくらいに強くなっては、同じことの繰り返しだ。
人種差別に反対する人が、白人を傷つける方向へ向かうことは、皮肉にも自分も肌の色で差別しているということを、強調していることにならないだろうか。

主義を持つことは、解放への一歩であり、何かを変えるきっかけになる考えを自分の中から生み出すことであるなら、素晴らしい一歩だと思う。
でも、右へ倣えじゃだめだ。
女性、有色人種、同性愛者、かわいそう。
彼らに権利を。
もしそれだけで運動に参加するなら、わたしは決して参加しないだろう。

これは前の記事にも書いたことだけど、
いじめ、虐待と同じなのだ。
どこにでもありうる。
職業差別、出身地差別、おもちゃの数、家族構成、家族の職業、苗字、話し方、などなどなど

どこにでも存在しうることだ。
差別はどこにでも蔓延るものです。

女性が強くなろうと、同性愛者が政治家になろうと、
このままじゃほかの差別が生まれるだけ。
そうでしょう?

運動に参加しなくてもできることがある。
主義を持つことは一人でもできる。
というか、突き詰めれば一人でしかできない。

一人一人が変わるしかない。

大人数で動くことはセンセーショナルではある。
そういう意味では意味がある。
意識を与えるという意味では意味があるかもしれない。
でもその先にある実践に、どれかだけ役立つだろうか。

何かに対する「反応」は、「無」だよ。
男尊女卑の反応は、女性の強さを見せることじゃない。

男も女もない世界

その世界に生きられますか。


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