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成人式の二日前に祖父が亡くなった話

もし生きていたら、今年の4月で99歳。来年100歳。当たり前に100歳まで、そしてそれからもずっといてくれるって思ってた。

でも私の祖父もいち人間なわけで。五年前、2020年の1月に、私の成人式の二日前に、94歳で亡くなった。

1/3 スキーに行く予定だった日

大学二年生の年末年始、帰省をしなかった。

2月末〜3月初めに開催される年に一度の学生大会に向けて、1月中旬に部内選考会が行われる。その日に向けて追い込もうと意気込んで、年末年始、長野に残った。

1月3日。この日も朝から一日滑って、帰宅後、夜行バスで実家(和歌山)へ帰って、翌日4日に高校の同窓会、5日に成人式に参加して、6日の夕方発でまた長野へ戻ってくる予定だった。(すごいスケジュール。若...)

そんな3日の早朝、父から電話が来た。

そして第一声。

「おじいちゃん、亡くなったんよ」

寝ぼけて電話に出たけれど、一瞬で目が覚めた。


(.........え?)


でも、しばらく声が出なかった。

すごく静かだった。早朝というのもあるけれど、静寂。...の中、自分の少し震えた息遣いと徐々に速まる鼓動だけが聞こえて、それからじわっと目頭が熱くなった。


「...ん」


何とか一音だけ絞り出して、父に泣き声を聞かれたくなくて電話を切った。

電話を切ってすぐ、布団に突っ伏した。悔し泣きみたいな泣き方をした。

うっすらと外が白み始めて、車出しの予定だったことを思い出した。平気なふりをして行けるか?何事もなかったかのように一日いられるか。一日だけ。数時間だけ。行ける?いや無理。どんなきっかけで涙腺が崩壊するかわからない。というか今の時点ですでに落ち着く気配がない。

私の車に乗る予定だった同期に、ごめん行けないと連絡をした。

それから夜行バスの出発時間まで、外が明るい間、布団にくるまってひたすら泣いた。

涙脆くない、なんなら涙腺ガッチガチの自覚があったけれど、人生で初めて号泣した。泣くほどの出来事があれば泣くんだな私、とか思ったりした。変に冷静。

泣いて泣いて泣いて、泣き疲れて寝てしまって、ふっと目が覚めたらまた泣いて、また寝て、の繰り返し。泣くって結構体力使うんだな、とか思ったりしながら丸一日泣いた。やっぱりちょっと、変に冷静。


冷静さは時折、ほんの一瞬顔を出す程度で、心の中はうるさい。

(なんで帰らんかったんやろ)

(選考会なんかどうでもいい)

(スキーなんかどうでもいい)

(大会がどうしたどうっでもいい)

(なんで長野にいるんやろ)

(なんで長野の大学に来てしまったんやろ)

(普通に年末から帰ってたら...)

(もっと会っておけば...)

(スキーなんかしやんかったらよかった)

(ちっちゃい頃雪遊びキャンプに参加したせい)

話を飛躍させまくりながら何もかも悔やんだ。


準備をした記憶も、バスターミナルまで向かった道中の記憶も、バスの中での記憶もない。泣いていたのか泣くのを堪えていたのか。あっという間だったかすごく長く感じたのか。

ひたすら放心状態だったと思う。



1/4 笑顔を張り付け参加した同窓会

夜行バスで無事帰れたことはたしかだけれど、その後の記憶もあまりない。

駅まで迎えに来てくれた車に無表情でムスッと乗って、ムスッとしたまま家に着いて、ムスッとしたまま身支度をして、ここで初めて外面モードON、顔面に笑顔を張り付けて同窓会に参加した。かな。

高校を卒業してからまだ二年という、そこまで久しぶりではない友達と「久しぶり〜」と言い合い、たくさん写真を撮って、ちょこちょこ料理を食べて(やり)過ごす。



1/5 成人式とお通夜があった日

翌日、着付け会場でたまたま幼馴染みと隣だったり、(今度は本当に)久しぶりの小学校の友達と再会して「懐かし〜」と言い合ったり、やっぱりたくさん写真を撮ったりして過ごす。

ちょっとだけ楽しかった。不謹慎かなって思った。

式そのものの記憶はほぼない。舞台に上がった子の中に中高の同級生がいて「あ」と思ったことだけ思い出した。

そんなもんか。

成人式って、ほぼ写真撮るイベントか。


そしてその日の夜、お通夜へ。もう感情ぐちゃぐちゃ。というわけでもない。別に成人式は参加する側からすればそこまで「めでたい!やったー!」「嬉しい!楽しい!」みたいなものではないから、感情ジェットコースターというわけでもない。

けれど成人式とお通夜が同じ日にあるというのはやっぱり妙な感覚で、迎えに来てもらった車の中で母に意味のわからない理由で当たってしまったりした。

たしか、ただ「着いたよ。どこどこで待ってるよ」と連絡をくれただけなのに、「まだ写真撮りたかったのに。一生に一度のことやのに急かさんといてよっ」みたいな感じで。

写真が撮りたかったわけじゃないよね。前日の同窓会から笑顔を張り付けつつ、心の中はそんなわけにもいかなかったんだよね。


お通夜でも、途中で耐えられなくなって外に出て、少し早めに家に帰った。また泣いた。

いとこ(ひとまわり以上年上)の子(当時4歳くらい)が、まだおそらく死というものを認識していなくて、わんわん泣く大人(私)を不思議そうに見ていた記憶がある。



1/6 お葬式、もう一度泣いた日

この日は、比較的落ち着いてその場にいられた。

でも、火葬場でまた、涙腺が崩壊した。3日の朝以上に泣いた。

周りの大人たちが静かに涙を堪えたり流したりしている中、一人過呼吸になりそうなくらいの嗚咽を漏らしていた。


その後どんな風に解散して家に戻ったのか覚えていないけれど、その日の夕方発で長野へ戻り、7日から普通に大学に行き、週末にはスキーに行き、その翌週末が選考会だった。


結果は散々。普通に実力不足。スキー経験者がまだ上位でいられた一年生のときとは違って、1シーズンを経てかなり順位が入れ替わった。未経験組の強さは変な癖がついていないこと。教わったことを素直に吸収できるからぐんぐん上達する。そんな同期たちにたくさん抜かされた。


悔しいどころの騒ぎじゃなかった。

おまけにこの年は、この後コロナウイルスが猛威をふるい、大会は中止となった。

色んな意味でやりきれなかった。

(おかげで火がついて、その後卒業まで消えないくらいの強火で燃え続けた。やる気スイッチがオフにならない故障を起こしたみたいにずっと燃えてた。それだけは唯一よかったことかも)


少し時間が経って祖父の死を事実として捉えられるようになると、人って本当にいつか死ぬんだな、と思った。



祖父の記憶

祖父の家はすぐそこで、ドアトゥードアならぬ、man to man 1分くらいの距離。

昔は、本将棋や挟み将棋をしてよく遊んだ。遊んでもらっていたというのが正しいのかもしれないけれど、当時の私は完全に祖父のことを友達扱いしていた。

将棋の他にも、祖父がお手洗いに行った隙に隠れて変なところから登場して驚かせたり(一方的かくれんぼ?)、側転の練習を見てもらったり(たしかそのときに跳び箱が得意だったというプチ自慢を聞いた)、ちらっと戦争の話を聞いて子どもながらにどこまで突っ込んでいいものか少し困ったり、お菓子(主にビスコ)をもらったり、こたつで一緒にテレビ(主に相撲中継)を見たりして過ごした。


でも中学生になったくらいから、部活や友達と遊ぶ予定を理由に遊びに行く頻度が徐々に減った。

祖父がいる部屋に「おじいちゃーん」と入っていくといつも「おー」と落ち着いた優しい笑顔で迎えてくれたけれど、いつからか帰るときに必ず「また来いよー」とか「またすぐ来いよー」と言われるようになった。

高校生になると、部活や勉強、他の予定を理由にさらに会う機会は少なくなった。大学生になると年に数回会う程度に。


祖父がデイサービスに通い始めたと聞いたのはいつだっけ。入退院を繰り返すようになったのはいつだっけ。お見舞いに行く間隔が長くなるにつれて、会うたびに、変わらなかった祖父の大きな変化を感じるようになった。

それに耐えられなくて、お見舞いに行く頻度はさらに減った。


どこかで、何となくそろそろなのかな、と感じつつ、会いたいような会いたくないような。気持ちは複雑で、祖父と向き合うことから逃げていたと思う。そうしたら、取り返しがつかなくなってしまった。


祖父の死以降、世の中のおじいちゃんおばあちゃんを見れなくなった。道を歩いていて遠目に高齢な方が目に入ると目を背けてしまうようになった。今でもその癖が抜けない。


「癖が抜けない」って何かの曲の歌詞にあったなって思ったら、ヨルシカの『だから僕は音楽をやめた』だった。

辞めた筈のピアノ
机を弾く癖が抜けない

ヨルシカ / だから僕は音楽をやめた



生きるってこういうこと

お通夜とお葬式のとき、父を亡くしたことになる私の父と伯父に対しても、私と同じく祖父を亡くしたことになるいとこたちに対しても、何でそんなに落ち着いていられるの?と思った。

大人だから?大人になりたてほやほやの私とは経験値が違うから?これまでの人生でもうすでに身近な人の死は経験していて、それで慣れたの?

大人になると、色んなことに慣れるんだろうか。


人って、グラデーションのように子どもから大人になるんじゃなくて、あるとき気づいたら"モヤモヤの国"に入ってしまっていて、そこにいる間は大人でも子どもでもなくて、そこでの冒険を終えた人たちが大人(と呼ばれる状態)になっているんだと思う。

モヤモヤの国にいる間は、それまでは特に気にならなかった色んなことに対してモヤモヤしてしまう。モヤモヤの国と普通の世界の間にはわかりやすい国境があるわけではなくて、ふと珍しいものに目を奪われたとか、何となくいつもの道を通らずに遠回りをしたとか、そんな些細なきっかけで知らないうちに迷い込んでしまっている。そして抜け出すときもまた、あれ?そういえばいつの間にか帰ってきてるな、くらいふわっと出国してしまっている。

モヤモヤの国にいる期間のことを、世間一般では思春期と言ったりする。

私は、ちょっと大冒険しすぎているのか、どこかで変な方向に突き進んでしまったのか、はたまた気づかずに同じところをぐるぐる周っているのか、まだモヤモヤの国から抜け出せずにいる。


よくわからない例え話が長くなってしまった。

精神年齢の発達がとても遅い自覚がある。大学生のとき"思春期"真っ只中の中学生くらいだったと思うし、社会人三年目(もうすぐ四年目)の25歳の今、やっと大学二年生くらいになった気がする。


祖父は、私の生まれてからの毎年を知っている(知っていた)けれど、私は祖父のほんの最後の20年間しか知らない。

そのことが、どうしようもなく悔しい。

お通夜、お葬式の場でも、周りの大人たちを見て私はこの(無駄に平然としている)人たちよりも祖父のことを知らないのか、と悔しさを感じていたと思う。


でも、最近アマプラで観たヨルシカのライブ『月光』で、n-bunaさんがこんなことを言っていた。

人生の価値は終わり方。結びの弱い小説ほどつまらないものはない。

ヨルシカ
ライブ『月光』より


藍二乗にもこんな歌詞がある。

この詩はあと八十字
人生の価値は、終わり方だろうから

ヨルシカ / 藍二乗


祖父の最後の20年間を、近くで孫として、友達として一緒に過ごせたのは幸せなことだったのかもしれない。

最後の最後に、ちょっと悲しい変化を受け入れられなくて距離をとってしまったことはいつか謝りたい。

大好きだったからこそ現実を受け入れられなかったんだと思うって言い訳もさせてほしい。

「おー、そーかそーか」って言ってビスコくれるかな。


スーパーのお菓子売り場でビスコを見る度におじいちゃんの顔が浮かぶ。

将棋は、おじいちゃんがいなくなってから一度もやっていない。

ルールまだ覚えてるかな。

一手か、良くて二手先くらいまでしか読めなくて、ただルールをなぞっていただけみたいな実力だったけれど、たまに勝てたのはあれは本当の勝ちだったのかな。

負けてくれていたんだとしたら悔しいな。


なんか、悔しいことばっかり思い出すな。


ライブ『月光』、とっても素敵な1時間20分だったのだけれど、一番印象に残ったのは一曲目のこの曲。

「3月31、東京ガーデンシアター、ヨルシカです」からの前奏で鳥肌が立った。


今、もう一度聴いてちょっと泣きそうになった。久しぶりにどっぷり祖父のことを考えたからかな。



個人的なことすぎる話を最後まで読んでくださった方がもしいたら、ありがとうございます。

そしてその中に今年の新成人の方、二十歳の方がいたら...成人、二十歳、おめでとうございます💐

大切な誰かを亡くされた経験のある方。自分には一大事件が起こっているのに世の中はいたって普通に動き続けて、何だか、何だかですよね。そこで自分も止まってしまわずに、動き続けるっていうのが生きるってことなんでしょうか。


だとしたら、この五年間、わたし、めちゃくちゃ生きてきた!三年生になって四年生になって、部活も最後の最後まで、四年生の3月まで続けて、その間教育実習と就活もして、卒論も書いて、無事大学を卒業して就職して、長野から関東へ引っ越して、満員電車にぶーぶー言って、仕事にぶーぶー言って、何だかんだ三年目に突入して、異動して変になっちゃって休職して復活して、今日も一日頑張った。

生きてきた!生きてる!毎日色々あるし悩みも尽きないけど、楽しいこと嬉しいことおもろいこともある!これからもそうやって生きてく!

なんかあつくるしいな。🌞🌝

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