属性から逃げない-BTSと見たグラミー賞、Love yourselfについて-

たった数か月前にBTSのファンになった私だけれど、グラミー賞発表の3/15(日本時間)は、私にとってうれしい、楽しい、悔しい、そしてちょっぴり悲しいが詰まった特別な一日になりました。
その後のもろもろも含めて、自分の意識や、世界にはびこる差別についていろいろと思うところがあったので、書き記しておこうと思います。

発表の当日、朝四時に起きてツイッターでARMYの皆さんとドキドキを共有しながら発表を待ったのも楽しかったし、焦らされまくったパフォーマンス待ちの時間も(NEXTと言われてから1時間以上あったのは許してない笑)なんだかんだ楽しかった。最近すっかり洋楽のパフォーマンスを見なくなったので、ハリーとかテイラーとか懐かしかったな、、。あとミーガン初めて拝見したけどめっちゃイケてたね!笑
BTSのパフォーマンスはめちゃくちゃかっこよかったし(ウリバンタンはスーパースター!!)、その直後にV LIVEをしてくれたり、発表の瞬間の動画をツイッターで見せてくれたりして、あ~BTSも一緒にどきどきしたんだな!ってうれしくなっちゃったな~。眠たい中ありがとうね。

ところで、私が早朝にBTSがノミネートされた部門の発表を見ていて悔しかったのは、受賞を逃したこともそうだけれど、受賞者が中継でコメントを残さなかったことでした。だってさ~バンタンくんは時差もある中早朝(っつーか深夜)からメイクアップしてサイコーにおしゃれな服着てキメキメで待ってるのに、君らは出ても来ないのかい!みたいな。まあ授賞式で発表される部門にもノミネートされてる人たちばかりだからいろいろと事情は察するものの、(改めてあのラインナップに入ったBTSはすごい)ちょっと残念だったなあ。ジンくんもV LIVEでちょっとくらいテレビに映ると思ってたよ!と言ってたしね笑
改めてちょっと温度差を感じて、これが嘲笑の材料にならないといいな、、なんて私もうがった見方をしすぎかもしれないけど思ったりしました。そして夜に日本の報道番組も見てみたけど、それまではBTS一色だったグラミーのニュースが、サラっと「BTSは受賞ならず」だけで終わっていたりして、なんだかんだ日本の人はBTSが取らなくて安心(そりゃアジア人は取れないよね的な)しているところがあるのかなあ、なんて思ってちょっと寂しくなった。

いまさら言うまでもないし、詳しくない私が言うのもあれですが、グラミー賞自体が「白人、男性優位」と言われているそうですね。音楽に詳しくないので、私には結果的にそう見える(優れたものを正当に評価した結果そのように見えてしまっている)のか、本当にそうなのかは判断が付きませんが、今回のBTSのノミネートで、一つ機会均等の風穴が開いたのは確かなのかなあ、と思う。それはアジア人という意味でも、アイドルグループという意味でも。
これをきっかけに、私が以前K-POPを食わず嫌いしていたように、アジアの音楽、アイドルの音楽を食わず嫌いしている人が減っていって、音楽ジャンルの垣根がなくなっていくきっかけになるといいなあ、と素直に思う。ミュージシャン側にとっても、リスナー側にとっても、選択の機会が増えることはきっと素敵なことなので。
一方で、受賞を逃したことについて、それだけではもちろんないと思っているけど(言うまでもなく受賞したRain on meも素晴らしい曲なので)、一つの要素として、彼らが韓国(アジア)のグループだったことも関係していると言い切って良いも思う。(グラミーの評価という意味で)プラスの意味なのかマイナスの意味なのかは分からないけれど、アジア人グループであることは確実にBTSの特性であるので、その要素を除いての評価はありえないよねって。まあまっさらな状態の平等な評価なんてグラミーに限らず無理じゃないですか?ていうか公平の定義って何?みたいな話になるわけで、、。
グラミー賞がある種保守的な「白人、男性優位」の傾向があるとすれば、審査の中で、アジア人かつアイドルグループであるBTSを「ノミネートはするけど受賞はさせない」というバーター的な考えがあったりだとか、「とは言え偏っているといわれないように主要部門は女性で」みたいなバランスを取っていた、と推察するのも許されたい、、と思っちゃうんですよね。私はBTSのファンなので。でもこうやって一歩ずつでもできること(交換条件を飲んででも)を増やしていくことで、確実により機会が均等化された賞(世界)になっていけばいいなあ、なんて思っておりました。

とは言え、彼ら自身の立場に立つと、「パイオニアだからってそんな交換条件みたいなコスト課されるのたまったもんじゃないぜ!」という気持ちにもなるのかな、、(今に始まったことではないが)と思っていたら、例の風刺画が回ってきて精神が死んだ。
少し心配していた「韓国(アジア)人なんかにグラミー賞が取れるとでも思ってたか?」的な嘲笑が、こんなにも醜悪なかたちで提示されてしまったか、と。
私がBTSを追い始めてたった数か月なのに、彼らへの差別的発言はこれで2回目。いま注目されていることの裏返しなのかもしれないけれど、これまでや私たちの目に見えないところでもいろんなことがあったのだろう、、と心が痛くなった。

差別がなぜなくならないのか、ということなんてえらい人や賢い人たちがさんざん議論や研究をしつくしているだろうけど、私としては、「個人が持つ嫌悪感を正当化してしまうから」だと思う。

差別について考えるときに思い出すのが、私が小学生のときに起こった「中国からの転校生に対するいじめ」だ。いま思うと最低なんだけど、私が通っていた小学校に中国からの転校生(Aちゃんとする)が来て、いじめが発生したことがある。でもその時、私(とたぶん周り)はいじめている意識は全くなかった。
というのも、いじめのきっかけが「Aちゃんが掃除をしない」ことだったから(また村八分にはしていたけど暴力とかそういう積極的な?いじめではなかったから)である。Aちゃん、日本語の勉強中で一部の授業に出席していなかったりはしたものの、割と日本語ができた(ように当時の私たちには見えた)のだけど(今思うとめちゃくちゃ努力してたんだろうな、、、)、掃除の時間になると急に「日本語がわからない」「掃除の仕方がわからない」から掃除ができない、と言い出すのである。そこで、私たちは「掃除をしないだけでなく、都合の良い時だけ日本語がわからないと言い出すAちゃんは信用ならん」と判断し、無視するようになってしまったのでした。だからいじめている意識がないどころか、「悪い人に罰を与えている」正義感すら持っていたように思う。
このいじめがどう解決したのか覚えていないのだけど、先生から「Aちゃんが中国人だからっていじめるのはやめなさい」的な話があって、私も周りも、え?いじめてないけど??それに日本人の子でも嘘ついたり掃除サボったりすれば同じことしますけど???みたいに思ったのはよく覚えていて、こんなふうに「いじめている意識が皆無だった」ことが本当に恐ろしい。また、やっぱり私たちの中に異国の人に対する恐怖や嫌悪感がきっとあって、それを「嘘をつく」「掃除をしない」という事実で正当化していただけだったんだな、と大人になった今はわかる。(掃除をしなかったAちゃんも、本当に日本語が私たちが思っていたほど理解できていなかったのかもしれないし、向こうでは学校の掃除なんてなくてなぜやるのか、と疑問を持っていたのかもしれないし、と今なら想像できる。子供って怖い。)

最近目立っているアジア人に対するヘイトも、「コロナを持ち込んだのは中国(アジア)だから」ということで普段から心のどこかで持っている嫌悪感が正当化され、表に出されてしまった結果なのだろうな、と思う。グラミーの件だってそう(「グラミー賞は本来アメリカのもの何にアジア人が入ってくるなんて」という正当化かな、と)。
もっと身近なところで言えば、ちょっと前に日本で飛び交っていた「夜の街」という言葉だって、普段は表に出せない嫌悪感がコロナによってあぶりだされた結果だよね、と。

そもそも、一人一人の何らかの属性に対する偏見や嫌悪感をなくすのが理想だけれど、はっきり言って無理だと思う。わたしにも嫌いなものはある。それはもうどうしようもない。だからこそ、劇的に世界が変わることなんて絶対ない。差別の根絶なんて無理だと思う。
じゃあどうするの?と考えると、やっぱり、自分の中の説明できない嫌悪感をまるっと受け入れることしかないかなあ、と思うようになった。変に屁理屈をこねて正当化するから表に出してしまい、人を傷つける結果になると思うので。
(だからこそ、自分が正しい!と思っているものに対して声を上げるときに、それは人を傷つけるものではないかな?と立ち止まることも大事だなあ、と、ARMYというバカでかくて行動力のあるファンダムを見て思ったりもする。BTSを守る、BTS=アジア人への差別に罰を!ということを免罪符に行き過ぎた言動にならないか恐ろしくなる瞬間があるので)

最近、BTSの国連スピーチを見直したのだけれど、彼らの言う「どんな属性であれ、声を上げる権利がある」という言葉はやさしさと同時に厳しさでもあるなと思うようになった。

というのも、自分に対しても、相手に対しても、マイナスな感情を抱いた時に自分の属性のせいにするのはとても楽なのです。
たとえば、誰か一人と嫌なことがあって(例えばそれが外国人だとして)、やっぱり外国人はダメだ、と思うのはとても簡単。個人を嫌うより集団を嫌うほうが手触り感が少なくてエネルギーがいらないと思うし、自分が「人を嫌う人間である」という事実から逃げられる。
自分に対しても、例えば私は日本人だから仕方ない、、とか属性のせいにすることで、できないことやダメな部分(ユング心理学でいうシャドウ)から目をそらせることができる気がする。努力をしない言い訳になるというか。
でも、それじゃダメ、どんな属性であれ関係ない、自分のダメさも属性のせいにせず、可能な限り努力して克服して、それでもダメなら受け入れて自分を愛しましょう、というのがLYS、SYSのメッセージかなあ、と、、。

一方で、以前も書いたけど、人は誰しも自分の属性から影響を受けることから逃れられないと思う。

人それぞれ生まれ持ったものは違うし、世の中公平なんてありえないし、不条理だらけだなあ、と思う。
また、最近周りが結婚したりとか子供産んだりとか増えてきたりもして、属性が違う人との触れ合い方って難しいな、と思う瞬間も時々あり、差別ってこういうところの折り合いのつかなさ(どうしても生まれてしまう羨望や優越感)から生まれるのかな、と思ったりもする。
じゃあどうするの?諦めて同じ属性の人とだけ付き合っていくの??と思った時に、何かを属性のせいにするのではなく、属性を武器にする人間でありたいな、、と思うようになりました。

私が大学を卒業するときに、ゼミの教授から「君たちは社会に出てから、自分がある種のアカデミックエリートであることを自覚していなさい」と言われたことがあります。その時はイヤイヤそんな傲慢な、、と思ったんだけど笑、私がありがたいことに大学を卒業させてもらい、「大卒」という属性を得たことは確かなんですよね。そしてそれは誰もが持っているものではない。恵まれていることは自覚しつつ、変に卑下したり謙遜するのではなく、堂々と武器にしていきなさいっていうメッセージだったのかな、と社会に出てしばらくたってようやく腑に落ちました。
その他にも、私にはいろいろな属性がある。例えば、日本人であり、女性であり、会社員であり、ARMYである。そして、全ての属性が同じ人はこの世に二人といないだろうから、同じ属性の人とだけ付き合っていくのは無理で、属性の違いと折り合いをつけて生きていかないといけないんだろうなと思う。(人は一人では生きていけないからね)
だからこそ、これまで得てきた属性(立場)、学んだこと、感じたことを生かして、自分の周りにちょっとでも影響を与えたり、少しでもより良い世界になっていくように意識できたらなあ、と思うんですよね。自分が好きではない自分の属性も、もしかしたら何かに生かせるかもしれないしね。前述のBTSのLYSというメッセージだって、アジア人である彼らが発するからこその説得力があると思うし、dynamiteだって、イングリッシュネイティブではない彼らが英語の歌を歌うからこそのパワーがある。うまくいかないことを属性の違いのせいにするのではなく、違いを生かしていける人になれれば良いな(そのために考え方の癖とか自分の持つ強みや弱さ、特性を整理できたら良いな)と思っています。

そして、今回の件などを通して、少しだけだけど、「差別的な発言に感度が高い」という属性を得られたと思うので、そうでない人が第三者を傷つけないような会話になるべくもっていく意識とかできたら良いな、、。どうしたって「差別が見えない人」や「無意識的に差別してしまう人(意見と差別の境目がわからない人)」っているから、そういう人たちに対して、少しだけだけど「差別が見える」ようになった私たちからできるとってないかなあって(ジャンルや状況を変えれば私が変えてもらう、制止してもらう側に立つことだってあるだろうし)。現状なにもできていないけど、日ごろの言動から、一歩ずつ気を付けていければいいなあ。

人々が持つ嫌悪感や偏見、敵対心は今日も明日もなくならないし、世界が劇的に変わることはない。それはどうしようもない真実だけど、だからこそ、一歩一歩積み重ねていくしかないんだよな、、と思う今日この頃なのでした。
とっちらかったけど以上です!いろいろ考えさせてくれたBTS、貴重な体験をありがとう!!

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