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映画「ゆれる」「ディアドクター」 を見て感じたこと

名作との出会い

ネーム講座にて、オリジナルのストーリーを作ってみようとことでアイデアやプロットを各々出すのですが、その時に先生が「この作品は見たことある?」と名作を教えてくださいます。

やはり個人の情報網には限度あるので、過去の名作でも知らなかったりするものがかなりあります汗
なので、映画名を教えてもらえるだけでも非常にありがたい!
さらに、ネットフリックスやアマプラでも気軽に観ることができるので時代的にも非常にありがたいものです。

今回は、そんな映画の中でも、
西川美和監督の「ゆれる」と「ディアドクター」を観た感想を書いてみます。

Don't think,Feel(考えるな、感じろ)

「ゆれる」「ディアドクター」を観た時に感じたもの。それは、結論をつけられないグラデーションのような感情です。

2つの作品に通じるテーマとして、
完全な悪人、完全な善人というものは存在するのか?という問いがあるように思います。

環境や状況、関係性等、積み重なったものがその人を構成していて、日常として機能している。
しかし、その歯車が少し。ほんの少し。
ちょっとした小石のような刺激で、ガチャリと歯車は外れ、そのとき初めて奥にあったサビのようなものが明らかになる―。

何も問題なく機能していたように思われていたその日常は
実は、か細い糸で切り貼りされた脆いものだった。

もろさの中に息づく“やさしさ”

うすうす気がついている。
何か少し違和感を感じている。
けれど、今の状態がありがたいから。
安心できるから。

そんな心が寄り集まって、ひとつのコミュニティーを形成している。
最初は自分のためだった。
でも、それで喜んでくれる人がいた。助かる人がいた。

同じ気持ちを持っているから、優しくできる。
優しいウソもつく―。

理性で測る”純然たる善”とは

こういう人はいい人。
こういう人は悪い人。
私たちの脳は、生き残るために瞬時に判断します。
ある程度決めつけておかないと、いちいち0から考えていたのでは、生きていけないので、必要な判断です。

分けて分けて、判断。
この人、いい人、悪い人。

しかし…

「いい人」に振り分けたその人。
振り分けたその理由の中に、
自分を守るため、その人にいい人でいてもらわないと困る、と
自分への都合の良さが、含まれてはいないでしょうか?

あなたは「いい人」の役を演じていてね。私のために。
だから、人は驚くのです。

まさかあの人が、なんであの人が。

いい人に振り分けられたその人の
”ホンネ”を聞いたことはありますか?

そんなメッセージを感じました。

正義は得てして白黒つけたがる

正義は善だ悪だと二分割します。

その方がわかりやすいし、だから人も巻き込みやすいですよね。
影響力も持ちやすいし、なんかカリスマ性を感じたりもします。

そもそも、なにが悪か、の規定がないと
逆の正義は存在しない。
正義、正論、正セイセイ…

正義の剣で割り切れないもの、
それが人間のような気も致します。
そのあたりは、東洋っぽさがありますね。

解析不能

映画を観た後は、勉強のためにも、
時間があれば解析をするようにしているんですけど、

この2つの映画に関しては、なんだか
解析するのもヤボったいな。。と感じました。

解析とは

そもそも観察するというのは、細分化して
対象を対象としてみる行為。

割と、自分と対象を同一化せずに離した状態で視る
感覚に近い気がしています。

解析は、さらにその観察結果を分析する行為。

なので少し理性的になるんですよね…
「ゆれる」「ディアドクター」を見た時には
なんというか、、、

理性で、こうだああだと、分割して規定するものではないなぁ
そんな風に感じました。

問題解決という目的から離れる

わたしは広告マンガを長く描いていたのもあり
また、理系出身なのもあってか
心の動きというよりは、

○○を伝えるためにストーリー展開を考えて描く!

ということが多かったのです。
そして広告マンガでは、商品だったりサービスを紹介するわけで
その商品やサービスは何かしらの問題を解決するものであり。

問題解決とストーリーがセットでございました。

けれど、今回「ゆれる」と「ディアドクター」を観て
何も問題は解決してないけれど、心の動きを表現したストーリー
言語化できない、隠された想い

人生というのはむしろ
そういう微妙なあいまいなところ
その何とも言えないところが大部分を占めていて

各々が何とも言えなさを抱えつつも、それぞれの人生を歩んでいる

問題解決、という手綱を少し緩めるような、そんな気持ちになりました。

心との向き合い方

ただ一つ、確かに思ったこと。
それは、
この感覚が、自分の心と向き合うときにも非常に大切なのではないかということです。

心というのは、時に、非常に矛盾を表現します。
理性で考えたら「なんだその意味のない行為は?」ということをすることが多々ある。

ある出来事を、非常に自分の都合の良いように解釈してしまうことだってある。

冷めているように見せて、逆に実は非常に執着が強かったり。
大人っぽく見せてるけど、中身は子供だったり。
逆に子供っぽく見えるけど、妙に大人だったり。

あらゆる矛盾を同居させているのが人間。

自分を分析するとき
そういった矛盾が許せなくて
自分を何とか規定したくて

自分の一部であるソレを亡き者にし
単純な○✖の箱に押し込めてしまう。

✖の箱に詰められたモノたちは
どんどん行き場を失って、
ある日ある時
ほんの少しの刺激で爆発する

それが自殺でもあり、殺人でもあり。

そうならないためにも
そのままの心を
言語化まで至らずとも
たとえ理性では許せないほどの矛盾を抱えていようとも

面、立体、そのままの形で
心を受け入れる。

なんだかなぁ
とか言いながらも
その気持ちを解決せずに、

そのような気持ちにも居場所を与える

スッキリしなくてOK
スッキリに逃げないのも
大事なのかなと感じたのでした

響いたところ

「…なんにも」

「ディアドクター」で特に感動したシーンがありました。
(ネタバレします)

とある”秘密の約束”を交わした患者と偽医者。
その約束とは、
胃がんを隠し、ただの軽い胃潰瘍として診断すること。

なぜそんなことをするかというと

  • 医師として活躍する娘に迷惑をかけたくない

  • いざとなったら医師の娘に良い病院を紹介してもらえるからいいよなという村の住民の目

  • 娘同士の確執

  • 死んだ夫のときの様な看病を娘に味わわせたくない
    等々あるのですが

その約束を交わしてから
偽医者は、患者の話し相手になったり、
一緒に晩御飯を食べたり。
心を通わせるようになるのです。

偽医者が失踪し、警察沙汰になり
警察がその患者に問うわけです
「なぜかばうのですか?偽の診断をされて…こうして運よくがん治療を受けられたからいいものの…あの偽医者があなたに何かしてくれましたか?」と

そうして答えるのです。
「…なんにも」
と。

「なんにも」に秘められたものに
なんだか感動してしまいました。

まとめ

徒然なるままに、感想を書いてみましたが
観ていて勉強になることが色々あったような気がします。

わかりやすさが正義でもない。
わかりにくくてもオッケー。

観て感じる感覚…
それを感じることこそが大事なのかな。
そういうわけで、Don't think,Feel です。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました✨✨


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