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まなざし(7) 隣の彼女

「えーっと、南館3階202号室は……」
翌日の金曜日、初めての大学での講義に向かうべく、俺は講義室を探していた。
“教室を探す”なんて経験は、高校まではなかった経験なので、スマホに登録しておいた構内図を見ながら「南館3階202号室」を探し出すのにはかなりの労力を要した。大体、生徒数は近所のマンモス校と呼ばれる大学に比べれば全然少ないのに、なんでこんなに広いんだ。

あまりに構内が広いため、自転車で構内を駆け抜ける人がちらほら見られた。そうだ、俺も彼らのように自転車でも買おう。うん、そうしよう。
「やーっと着いた」
一般教養の「メディア論」の講義が行われる南館3階202号室は一年生が多いからか、扉の前で立ち往生する人たちで溢れていた。皆初めての授業で、どのタイミングで教室に入るべきか否か迷っているようだ。自分のように一人で講義室に来ている人もいれば、早速大学で友達をつくって数人で授業に出てきている人もいた。そんなにすぐに友達をつくることのできる能力がある彼らが、俺には羨ましかった。同じクラスだとか同じ部活だとか、何らかの繋がりの中でしか今までちゃんとした友人ができたことがなかった。
大学では同級生同士の繋がりなんてそこまで強くはないはずだから、俺も早いとこ新しい友達をつくらなければ。中島は初日から俺が誘った授業に来なかったため、あてにならない。きっと彼は今後もそういう生き方をするのだ。それでいてちゃんと卒業してしまえる。そのことが目に見えて分かった。

俺は講義室の出入り口の前でたむろしている男女の間を抜けて、講義室の中に足を踏み入れた。中は階段状に並んでいるテーブルと椅子が120°の弧を描いている。俺が思い描いていた大学の講義室そのものだった。

まばらに人が座っている中で俺はどこに座ろうか迷った。今ならまだたくさん席が空いていたので、座る場所は選び放題。結局、なんとなく後ろの方の席から埋まっているというその流れに乗って、俺は後ろから二列目の席の扉近くの席についた。ここなら講義が退屈な場合でもすぐに抜けることができる。なんて良い席だ。

講義が始まる5分前、スマホをいじりながら時々顔を上げて周囲を見渡した。講義開始時間が近づくにつれ、講義室前に溜まっていた連中がどっと中に入ってきて、思った以上に席はいっぱいになった。俺は隣の席に置いていた荷物をそろそろどかそうかと迷う。隣に人が来られることに抵抗があったが、混雑しているのなら仕方あるまい———と、入学前に買った新品のリュックに手をかけたとき。

「あの、もしかして早坂君ですか?」

ふと横から聞こえてきた囁くようなその声を聞き、俺はぱっと声の方向に顔を向けた。

「あ、雨宮さん!」

そこに立っていたのは、まさに俺が昨日仲良くなりたいと願った雨宮瞳美だった。

「昨日はありがとうございました。あの、もし良ければ隣に座ってもいいですか」

「う、うん! もちろん」

突然の彼女の登場に俺は挙動不審になりながら席を進めた。彼女が座れるようにリュックをどけ、机の上に置いていたノートとペンを自分の方に寄せた。リュックで席を一つ確保していた自分にナイスと言いたい。もちろん彼女のためにとっておいたわけではないが、運も実力のうちというやつだ。見たか中島。俺は一人でもやれるのさ———と、心の中で慢心していた俺も、実際は彼女が隣に座り、女の子特有の甘い香りを漂わせてきただけで鼓動が速くなっていた。

やべえ、隣に座ってきた。

甘い匂い。ふんわりと緩くウェーブを描く黒髪。カバンからノートを取り出す際に髪の毛を耳にかける仕草。

彼女の一挙一動にドキドキし、荒くなる心臓の音が聞こえはしまいかと心配だった。なんだそれは。少女漫画の主人公かよ、と気の利いた話一つも振れない自分自身を罵りたくなる。

結局その後会話もできないまま、講義が始まった。
最初の講義に選んだ「メディア論」は、テレビやネットが生み出す効果を日常の例で考えるというテーマでなかなか面白かった。教授は黒髪に眼鏡の40代ぐらいの男性。失礼だが、ぱっと見の外見は物静かに研究に打ち込んでいるようなタイプにしか見えないのに、講義で喋り出すとユーモアたっぷりのおかしなおじさんだった。自分たち生徒にはそれくらいの方が聴き心地の良い講義となったが。
ただ講義の後半になると、後ろの席から何人もの生徒が机に突っ伏している様子が見えた。

「90分、長かったね」

授業が終わり、皆がカバンに荷物を片付けている中、隣の彼女がそう俺に声をかけてきた。
「そうだな、こんなに長い時間の授業がこれから続くのかぁ」
いくら面白いとはいえ、高校時代の50分の授業すら耐えられずに居眠りしてしまう自分にとって、90分の講義は永遠に続くのではないかと思われるほどの時間だった。
しかしそれ以上に、俺は彼女が自分と同じ感想を抱いたこと、声をかけてくれたことが嬉しくて授業中の眠気が一気に吹き飛んだ。
「あ、そうだ。出席カード出さなくちゃ」
彼女がそう言ってくれたおかげで俺は重要な役割に気がつき、教室に入る前にとっておいた出席カード二枚に、別々の名前を記入した。
「二枚出すの? 誰の分?」
そんな俺の様子を訝しがった彼女は二枚の出席カードを見て言った。
「友達の分なんだ。初日からサボりやがって」
「なるほど。ふふっ。早速、大学生だなあ」
「だろ? 本当にもう、世話が焼けるやつだ」
中島からすれば、「世話が焼ける」のは俺の方かもしれない。けれど、ここにはいない中島をダシに、俺は彼女とこうして普通に会話ができているため、彼にはいささか感謝しなければなるまい。
「そういえば雨宮さんって、何学部なの?」
「社会学部」
「え、本当に?」
「ええ。もしかして、早坂君も?」
「うん、実は」
「それは偶然だね」
「ああ、偶然だ」
偶然、と言いながらカバンを右肩にかけた彼女の顔が、合格発表の日に掲示板の前で苦しそうな表情を浮かべていた彼女とは別人みたいに明るかった。
「同じ学部ならこれから何度も会うと思うし、よろしくね」
「そうだな、よろしく」
「それじゃあ私、次の講義あるから」、と彼女が席を立って行こうとしたとき。
俺は脳内で中島が「今だ!」と威勢の良い声を上げたのを聞いた。
「あ、雨宮さん!」
「なに?」
彼女のくるりと大きな瞳が俺の目を捉え、じっと見つめた。
その目に吸い込まれるように、俺は意を決して大事な一言を放つ。

「連絡先、教えてくれないか」

緊張したし、不安もあった。
もし彼女が「えっと」と少しでも迷ったらどうしよう。携帯持ってないとか、LINEやってないとか言われでもしたら。
「いいよ」
その返事が、まるで天からの声のように聞こえた。
現実は俺が思っているほど、残酷なものではなかったのだ。
「え、いいの?」
「うん。私も大学で友達欲しかったから」
そう言って彼女はカバンからスマホを取り出し、俺とLINEの連絡先を交換してくれた。
「ありがとう」
「こちらこそ。よろしくお願いします」
「じゃあまたね」と手を振って、彼女は次の講義室へと歩みを進めた。
二限目を空きコマにしていた俺は、緊張と安堵と喜びでしばらくその場から動けないでいたのだった。

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