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まなざし(10) 耳を塞ぐ君を

例えば、心から満足できて「楽しい!」と思える旅行にするには、出かける前から事前に行きたい場所をピックアップし、できる限り時間を有効に使うことが求められる。
いくら気になる場所がいっぱいあっても、限られた時間の中で全てを回ることはできないかもしれない。そんな時は、優先順位をつけて本当に見逃せない箇所だけ回るようにするのが良い。
そう、つまり大事なのは事前リサーチ。
旅行とまではいかずとも———例えば今日みたいにふらっとご飯を食べに行くだけでも、事前に美味しいご飯屋さんを調べておけば、急な日程でも納得のいくご飯にありつけただろう。

「ごめん雨宮さん。俺、このあたりの美味しい店知らないんだ」

月曜日の五限後。
威勢良く気になる女性を食事に誘ったものの、勢いばかりでその先のことを何一つ考えてなかった俺は深く詫びた。
しかし彼女は、「そんなの全然良いよ」と答えてくれた。
「私だって、この辺のことよく知らないから」
「ありがとう」
うん、と自然に頷いてみせる彼女を見ると、自分が考えるほど「店を調べていない」という事実は彼女にとってそんなに大事じゃないことなのだと分かった。

俺たちは結局、大学から歩いてものの10分もしないうちにたどり着いた定食屋に入ることになった。
「定食屋でごめんな」
本当はもっとおしゃれなカフェにでも行きたかったのだけれど、大学の付近に女の子と二人きりで入りたいと思えるようなおしゃれなカフェなんかなかった。
「ううん。最近私、定食とかちゃんとしたご飯食べてなかったからむしろ嬉しいよ」
はあ、まったく彼女は、まるで天使じゃないか。
お世辞でも嬉しいその言葉が、俺の心をじんわりと温めてくれた。
「うーん、私、これがいい」
テーブル席で早速メニューをめくっていた彼女が指差したのは、「カレイの煮付け定食」だった。うん、なかなか渋くて良いチョイスだ。それに対して俺は「デミグラスハンバーグ定食」。小さな子供とお母さんみたいな組み合わせでちょっと恥ずかしかった。
けれど彼女がまた、
「お、いいね、ハンバーグ。お腹満たされるよね」
と俺の選択を肯定してくれたのに頰が緩んだ。
八方美人でもただの社交辞令でもなんでも良い。ただ彼女が自分の行いにいちいち同意してくれるのが単純に嬉しい。
「雨宮さんって、一人暮らしだっけ?」
定食を注文してからものの10分ほどで運ばれてきた熱々のご飯を咀嚼しながら、俺は目の前の彼女に訊いた。
「そうそう。実家からは2時間かかるから、わがまま言って一人暮らしさせてもらってる」
あちち、とお椀の蓋を開けてすぐに口をつけた味噌汁を前にして、彼女は言った。
その後彼女が口にした聞き慣れない地名は、隣の県でも市外で、俺もあまり訪れたことのない土地だった。
「そうなんだ。じゃあまだ生活にも慣れてないでしょ」
「うん、まだ全然。こっち出てくるまでご飯も作ったことなかったらからさ、こうして定食が食べられるのがありがたいの」
「ああ、そうだよな。俺も飯なんか作れないけどさ、もし自分が一人暮らしなんか始めてみたら、飢え死にしそうだ」
「ははっ。その時は差し入れ持って行ってあげる」

もし本当にそんなことが起こるのなら、俺はぜひ飢え死にしたい。

なんて、馬鹿みたいな妄想に夢を膨らませながら、デミグラスソースの垂れるハンバーグを口に入れた。
なんだこれ、めちゃくちゃうまいじゃないか。
調子に乗ってハンバーグと一緒に熱々のご飯も一気に口に放り込む。少し熱いが肉汁の滴るハンバーグと白ご飯という最高の組み合わせに、俺は熱さなどまったく気にならなかった。
対して、目の前ではふうふう、と味噌汁を冷ましながらようやくごくんと飲み込んだ彼女が、なんだか小動物みたいで可愛らしい。味噌汁を食べるのにも一苦労している彼女はどうやら猫舌みたいだ。
「ごちそうさま!」
長時間の授業でお腹が空きまくっていた俺は、十分なボリュームのハンバーグ定食を一気に食べ終えてしまった。
「気持ちの良い食べっぷりね」
「だろ」
丁寧に骨を避けながらカレイを食べる彼女は、俺が先に食べ終わっても自分のペースを乱さずにゆっくりと箸を動かしていた。そんなマイペースさに、俺は魅了された。彼女からは、俺だけじゃなく他の人間のいかなる行動も、彼女の生きるスピードに全く影響を与えさせない凛々しさみたいなものを感じたのだ。
「ごちそうさまでした」
俺が食べ終わって15分もした頃、彼女はようやく自分の分のご飯を食べ終えて箸を置いた。
「美味しかったね」
とても満足そうに微笑む彼女を見て、俺は心の底から喜びを覚えた。


会計時、俺が二人分のご飯代を払うと言うと、彼女は「いいよ。私払うよ」と当たり前のように首を振った。けれどここは男気の見せどころ。遠慮する彼女に「いいから」と押し切って二人分の支払いを済ませた俺は、自己満足に過ぎないが彼女と二人でご飯を食べたことにとても満たされていた。
「ありがとう。ごちそうさま」
最後には観念した彼女が遠慮がちに俺の前で手を合わせたのが可愛らしく、俺はそんな彼女をずっと見ていたい衝動に駆られた。ダメだ、今の俺、客観的に見たら絶対気持ち悪い。脳内で「おい早坂」と中島が横から突いてくる映像が再生されてぶるっと首を横に振った。そんな一人芸を繰り広げる俺を、彼女は不思議そうな眼で見ていた。
「家まで送るよ」
大学の周辺に下宿しているという彼女をその場で一人にするのはなんとなく気が引けたし、それ以上に夜道を女の子一人で歩かせるのは危ないと思い、俺はそう提案した。
「ありがとう」
嫌がれるかと思いもしたが、案外すんなり受け入れてくれたため、俺たちは彼女の家の方向に歩き出した。
「すぐだから」と言う彼女は、どんな言葉を続けようとしたのだろうか。「すぐだからきっと疲れないよ」なのか、「すぐだからお言葉に甘えよう」なのか。たぶんどっちでもないんだろうけれど、自分と二人で帰ることを肯定してくれて嬉しかったのは確かだ。
「大学の近くって、やっぱり大学生多いだろう?」
「そうね、多分そう。住み始めたばかりでまだ分かんないけど、時々夜中に騒がしい声が聞こえる」
「そっか、それは迷惑だな」
「うん、本当に」
迷惑———と言いかけた彼女が、突然さっと耳を塞ぐのを、俺は横から見ていた。
そのすぐ後、
「マジでー!? 行く行く、今から飲もうぜー!」
ワーキャーと、向かいから歩いてくる4,5人の大学生とすれ違う。
きっと彼らは仲間とワイワイはしゃぐことを生きがいにしているような人種だ。俺や彼女からは程遠い存在——ああ、そうか。
俺は彼女がなぜ耳を塞いでいるのか、少しだけ分かった気がした。
「雨宮さん、大丈夫?」
「ごめんなさい……」
はしゃぎ声が聞こえなくなるまで、随分と時間がかかった。それほど彼らは大きな声ではしゃいでいた。彼らから遠ざかり、しばらくして彼女はようやく耳を塞いでいた手を離した。
「謝ることないよ。あいつら、ちょっとうるさかったね。どうしたの」
「ううん、早坂君の言う通り、本当にうるさかっただけ」
俺も人のはしゃぎ声を鬱陶しいなと思うことはあるけれど、彼女のように耳を塞ぐという行動に出るまではしたことがなかったので、少しばかり焦ってしまった。
「そっか。あんまり気にしない方が良い」
「……うん、そうだね」
淋しそうにそう答える彼女を見て、俺は失敗したか———と思った。
それから、大学の合格発表の日に彼女を初めて見かけた日のことを思い出す。

そういえばあの時、彼女は歓声や落胆の声が響く音だらけの世界の中で、一人耳を塞いで苦しそうに立ちすくんでいたということを。

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