古い記憶と母の愛

つい先日、自分の古い記憶を辿る機会があった。

一番古い記憶を思い出そうと懸命に頭も働かせてみるものの、すべての記憶は断片的にしか出てこない。鮮明に思い出した記憶もアルバムの中で見た写真と、母や祖母に聞いた話を元に私が勝手に記憶のように作り出しているもののような気がして、参った。
そして、記憶、なんてものは曖昧だなぁとぼんやり思う。

母はよく楽しそうに私が小さかった頃の話をする。私の過去について尋ねると、とても幸せそうな優しい顔をして、昔話を語るのだ。
それは祖母も祖父も同じで、皆揃って優しい顔をして昔の話を、ゆっくりと始める。
小さい頃はそれが何故だかよく分からなかった。と同時に心地よかった気もする。

娘が生まれて、忙しい日々と共に、忘れたくないと強く願う、そんなあたたかい思い出がたくさん増えた。今までの思い出とは違い、娘の一つ一つの成長や表情や空気みたいなものを忘れたくないと切に願う。そんな思い出の数々。

そして、気付く。

「ああ、母はゆっくりとあの日に戻っていたのだな」

私には、自分の小さかった頃の記憶が断片的にしかないけれど、母の中にはちゃんと残っていて、母の脳やからだに私を育てた日々が染み込んでいる。母はきっとぜんぶちゃんと覚えているのだ。
忘れないように一生懸命目で見て、耳で聞いて、からだを触れ合い、記憶にする。
母にとって私を育てた日々はかけがえのないものなのだな、と。
そしてその記憶をゆっくりと指でなぞるように話すことで、母はあの日に戻ってゆくのだ。

母になって気付く、母の偉大さ。
母になって気付く、子の尊さ。

私は大きな愛に包まれて、守られて、すくすくと育ってきたのだと痛感する。

世の中にある、当たり前は誰かが支えていたり、守っていたり、懸命に愛していたりする。

当たり前が当たり前じゃないと気付くとき、
人はまた一歩前へと進めるのだろう。


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