「働く」とは何か?ー映画『家族を想うとき』

映画『家族を想うとき』を観たのですが、心にズシンと来すぎて、書いている間に年を越してしまいました。

とにかくこの映画を観てほしい。そんな想いで書いたので、読まずに予告編を観て映画館に走ってもらっても嬉しいです。

【あらすじ】
イギリス、ニューカッスルに住むある家族。ターナー家の父リッキーはマイホーム購入の夢をかなえるために、フランチャイズの宅配ドライバーとして独立を決意。「勝つのも負けるのもすべて自分次第。できるか?」と本部のマロニーにあおられて「ああ、長い間、こんなチャンスを待っていた」と答えるが、どこか不安を隠し切れない。
母のアビーはパートタイムの介護福祉士として、時間外まで1日中働いている。リッキーがフランチャイズの配送事業を始めるには、アビーの車を売って資本にする以外に資金はなかった。遠く離れたお年寄りの家へも通うアビーには車が必要だったが1日14時間週6日、2年も働けば夫婦の夢のマイホームが買えるというリッキーの言葉に折れるのだった。
介護先へバスで通うことになったアビーは、長い移動時間のせいでますます家にいる時間がなくなっていく。16歳の息子セブと12歳の娘のライザ・ジェーンとのコミュニケーションも、留守番電話のメッセージで一方的に語りかけるばかり。家族を幸せにするはずの仕事が家族との時間を奪っていき、子供たちは寂しい想いを募らせてゆく。そんな中、リッキーがある事件に巻き込まれてしまう──。

見せかけの「自由」の裏にある「責任」

「自由にしていいよ、君は個人事業主なんだから」
ーーそんな言葉とは裏腹に、トイレ休憩すら取れない、1日14時間の仕事。代わりの人を見つけなければ有給すら取れない。でもローンを組んだ配送車の支払いは続く。そんな「個人事業主のドライバー」という働き方。

ギグエコノミーが広がって、誰でも「個人事業主」になれるようになった世の中。お金も自由も手に入れたフリーランスの方々の裏で、自由を手に入れるために、お金が稼げなくても雇用保険も社会保障もないリッキーのような人々がいるのもまた事実です。

保険も保証もなく、休みすら取れない雇用形態を選んだことを「自己責任」と表現すればそれまでかもしれない。でも、学歴もスキルもなく低所得で、どこの職場でも長続きせず、子供を育てなければいけない状況の中で、雇用形態の変化によって苦しくなるのは本当に本人たちだけのせいだろうか?

「働く」とは何か

何のために働くのか?何のためにお金を稼ぐのか?
ーーそう聞かれて、家族のために働くと答える人は多いと思う。

でもその「仕事」が「家庭」を崩壊させているとしたら?

「お前たちのために働いているのに」
「俺が働かなくなったらどうなると思ってるんだ」

そんな父に対して、一緒にいてほしい、ただ以前のように家族で過ごしたいと願う子供たち。

仕事が家庭を崩壊させても働かなければいけないのか?一体なんのために働いているのか?

今まで観たどんな映画よりも重く、リアルに、そんな問いかけをしてくれる映画です。

おまけ

ここからは私が感じたことを。

①何のために働くのか?
健康を害してまで働くのか。家族を壊してまで働くのか。失業保険をもらうことは恥ずかしいことなのか。自分にとっての大事なことを見失わずに生きたい。

②「自由」に働くために「リスク」を負っている人々
副業解禁の会社も増えている中で、個人として契約を結ぶこと、働くことも増えていく。そんな時にリッキーのように「リスク」があるというのは個人としても認識しておきたいなと思った。

また、普段フリーランスの方々と接する身としては、彼らがリスクを負っているということを理解した上で接したいし、説明する責任があると改めて身が引き締まりました。そして、企業や政府には、個人がリスクを感じすぎずに働ける仕組みづくりをしていく責任もあると感じました。

③自分の仕事も他人事ではない
リッキーのように、今脅かされている仕事も、一昔前は安定した仕事だったはず。機械に取って替わられないか?

そういう意味では、主人公たちと同じ状況にいない人でも、感じるもの、考えるものはたくさんあると思う。

監督の言葉も読むとより深い理解に繋がったので最後に貼っておきます。


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