自立した大人とは、ゴキブリと戦える者だと思う

「社会人として自立する」「自立した大人になりなさい」私たちは小さい頃から、「自立する」ことを求められ続けてきた。
確かに、ずっと親の脛を齧り続けるわけにはいかないし、誰かに頼ってばかりなのもよくないような気がする。少なくとも、そういう風に教えられてきた。

しかし、そもそも「自立」とはなんだろう?

読んで字の如く、「自分で立つ」すなわち、自分の力で食い扶持をなんとかして生きていく、ということなのだろうか。だから、今まで勉強しろとか、将来を見据えて色々考えろとか、そういう話になっているんだと思う。

しかし、「自立イコール食い扶持を稼ぐ」が強調されすぎていて、真なる意味での自立が蔑ろにされているのではないか。
自分の力で生活していくというのはすなわち、「自分の生活を自分で守る」ということである。「生活」というのは、「衣食住」に直結するものであり、それを踏まえた上で「自立」について突き詰めて考ると、それは「ゴキブリとの戦い」に帰着するのである。

要するに何が言いたいのかというと、我が家についにゴキブリが出た、ということである。引っ越して数ヶ月、私と同年代くらいの築年数の中古物件。田舎だから、周りは緑あふれる自然いっぱいの環境。近所の歩道には、ゴミが散乱しているわけでもないのに、なぜか夜になるとゴキブリがたくさん出ている。

引っ越した時、念入りにバルサンを焚いた。その翌日に、壁を悠々と這うアシダカグモを見かけてしまった。この環境なのだ。どんなに抗おうと、運命からは逃れられないのは分かっていたつもりだった。

しかし、それを見つけてしまったショックは、あまりあるものであった。

私は、ゴキブリが怖い。なぜ怖いのかはわからないが、もうとにかく恐ろしくてたまらない。自分の住む家を守るためには、彼らとの戦いは避けられないけれど、あまりに恐ろしくてゴキジェットの銃口を向けて噴射する勇気も出せないヘタレなのだ。

先日、ゴキブリ第一号があろうことか台所に現れた。おそらくかなり若い個体で、色も薄く、小さかった。しかしそれでも、奴は、ゴキブリとしての堂々たる風格をそなえていた。
意を決し、下駄箱にしまってあったゴキジェットを取り出して戻ってきた時にはもう遅かった。薄くて小型な奴は、すでに身を隠した後だったのだ。

しかし、姿が見えなくなったからと言って、存在を無かったことにはできない。今でも奴は台所のどこかに潜み、あわよくば飛び出してくる機会を伺っているのだろう。

どこかに、奴が、いる。

その恐怖はどれほどのものだったかは察するにあまりある。
私はゴキブリとは戦えない。ゴキジェットを噴射することすらままならない、ヘタレである。
結局台所の若いゴキブリは、半ば錯乱気味の私の横で、夫が始末した。的確にゴキジェットを被弾させ、亡骸をコロコロ粘着テープで回収し、速やかに処理していた。

私は夫のことを頼もしい人だと思っているが、特にこの時はまるで神の如く輝いて見えた。姿が見えたからといって反乱狂にならない冷静さ。的確にゴキジェットで動きを封じ、その亡骸の処理すら鮮やかだ。
私には、到底できない。ころころ粘着テープ越しとはいえ、奴の体に触れるのが恐ろしい。さらに言えば、粘着テープを折りたたみ、念のためにその亡骸を粉砕するだなんて、考えるだけでも鳥肌が立つ。

しかし。そんなことで良いのだろうか?
私は、運よくゴキブリと戦える夫を得たわけであるが、だからと言ってその戦いを夫一人に押し付けることが許されるのか。
奴らの襲来は夫が家にいない時にだって起こりうる。
そんな時、私はただ恐怖に震えることしかできないのだろうか?

私は、ゴキブリと戦える女になりたい。
安住の地であるべき自宅を、安住の地たるべく守らなければならない。
住む家を虫けらごときからすら守れないようで、何が「自立」だ。

私は、ゴキブリと戦える女に、なりたい。

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