リハビリつれづれ 8

  新しいことを始めるというのはストレスである。正式にはストレスというものはストレッサーに対応した状態であるため正しく心理用語を使うと、”新しいことを始めるというのはストレッサーであるため、心身の抑うつ的なストレス反応をもたらす”というのが正しい使い方である※18。ただ、私は心理学者ではないため、ここではごく一般的な使い方をしたいと思う。このストレスはマイナスな出来事の後に生じると考えるのは当たり前の話であるが、例えば新生活を待ち望んでいる引っ越しのようなイベントや、男女が永遠の愛を誓う結婚でもストレスは生じるのだという※18。そんなことであれば自宅に引きこもっている自宅警備員はうまくストレスを回避しているように思われるが、実は人生という回り続ける歯車においては置いてきぼりにされるばかりなのである。人生は毎日周り続けている。さらに回っているのは人生だけならまだしも、それは次の世代、その次の世代へと引き継がれていくものである。もうあまりにも巨大すぎて私のような一個人の小さな歯車を止めたところで、この歯車が回り続けることは当たり前なのだが、良心という私についた歯車の錆があまりにもしっかりとこびりついてるために私は今日も歯車の一員となり切磋琢磨しなければならない。自宅警備員を社会という大きな歯車の一部分とさせるのは臨床心理士の先生方にお願いして、私は本日も日本という小さな島国の病院という医療従事者を安月給で働かせる巨大な歯車の一部になろうと思う。

 今朝の横浜市立緑野総合病院のリハビリ室は明るい。私は患者さんの予約時間の管理をしていると豪先輩が話しかけてきた。
「正人は昨日のドラマみた?」
「もちろんみましたよ。」
 患者さんのリハビリの予約時間を管理しているのもセラピストの役割である。患者さんの治療の時間と重なった場合、その患者さんを他の患者さんと時間をずらさなければならない。ちなみに九時の一番始めに呼ぶ患者さんは朝の九時から運動しなければならなくなることや、治療などの都合により時間変更を希望されると他の患者さんと時間調節が難しくなってしまうため少し気を遣うところである。また、私としてもその日の一番始めの患者さんなので社交的な人をお呼びしたいと思うのが心情である(ただ、患者さんの中には時間間隔が分からなくなっている人もいるため、あえて朝早くにお呼びすることもある)。今、一番でお呼びしている山口さんは、”全然大丈夫よ!”と、快く承諾してくださったので非常にありがたいことである。
「いやー、昨日のさ、柏原陽奈は可愛かったよなー。あのドラマPT出てないから俺出してくれないかなー。そんで柏原陽奈と恋愛シーンやりたい。」
「豪先輩だとちょっとキャラが濃すぎてあのドラマと合わないです。たぶん私の方が柏原陽奈と合うと思います。」
 私と豪先輩は柏原陽奈のファンなのである。豪先輩も今回の柏原陽奈が主演の恋愛ドラマをしっかりチェックしていた。
「どっちにしても視聴率が下がるんで出られないと思いますよ。」
 詩織が冷静なツッコミを入れる。
「昨日の柏原陽奈が、賢人に“好きになってもいいですか?”っていうシーンがあったじゃないですか?あれはやばいですね。」
「あれはやばかった。惚れた。」
「豪先輩彼女いるでしょ。」
 と詩織。
「これはこれ。それはそれ。」
 そこに太い女性の声が割り込んできた。
「私そのドラマみてないんだよねー。ちなみに柏原陽奈って私よりかわいいの?」
 口裂け女の「ねぇ、私、きれい?」と同等、いやそれ以上の圧力で美しき女性を作り出している女性は、大先輩である松本陽子さんである。松本さんは二十年以上の臨床経験をもつ大ベテランなのであるが、今でも管理職につかず現役バリバリの理学療法士である。臨床業務の中で、患者さんのお部屋でリハビリを行うベッドサイドリハビリがあるのだが、その際も十階まであるこの病院を、エレベーターを使わずに階段で移動しているという強靭な心身をお持ちの方なのである。ちなみに松本さんは臨床になると大女優に七変化する。患者さんとあいさつをするときに、
「私の名前は“まつもと”って言います。覚えにくかったら“吉永百合子”って覚えてください。」
 と患者さんの年齢に合わせて、ある時は女優歴五十年以上の大女優、吉永百合子になり、ある時は日本国民の妹と呼ばれている広末鈴音になるのである。そのため男性の患者さんはもう松本さんに夢中である。そして、さすがの豪先輩もこの人にはたじたじである。
「イヤー。マツモトサンヨリカワイイヒトハ、コノヨニイマセン。」
「武井君、なんで片言なのよ。男なんだからもっと大きな声ではっきり言いなさい。」
「松本さんの美しさに緊張してしまって声が小さくなっちゃうんです。」
「そうね、それならしょうがないわね。」
 リハビリ科の柏原陽奈は今日も健在である。

「それでは四月二日、朝のカンファを始めます。今日のお休みは・・・・」
 毎朝行われる臨床業務前のカンファレンスである。司会を務める村田科長は淡々と業務連絡を進めていく。黒縁眼鏡の村田科長は、合理的な性格からか時間に厳しい方である。
「リハ時間内で最大限のリハをする。そうでないと次の患者さんを待たせることになりますから。」
 これは村田科長の口癖である。“臨床中に焦ってしまい時間に追われるのは、正しく評価できていないから。そして正しく治療出来ていないからだ”と。毎日の臨床にいっぱいいっぱいの私はよく村田科長からこの言葉をかけられている。
 村田科長は管理職の立場のため、患者さんにリハを実施するのは一日の半分程度である。残り半分は他部署との会議であったり、課長のデスクにてリハ科、リハスタッフのためにパソコン作業を行っている。デスクにいる時の科長はよく黒縁眼鏡を持ち上げているが、これは科長が考え事をしているときの癖である。
「それでは患者さん報告お願いします。」
「お願いします。退院二件です。8-Aの広瀬洋子さんが本日自宅退院、10-Bの野口・・・。」
 患者さん報告では、リハビリが終了する患者さんを報告する。これは主に三つに分けられる。一つ目は退院。治療が終わり、症状が良くなったため自宅等に退院する。二つ目は転院。治療自体は終わり、症状は安定したが、社会生活は送れないため、さらなるリハビリや環境調整が必要と判断された場合、他の病院(リハ病院、回復期病院と呼ばれる)に転院する。三つ目は死亡退院。前日までリハビリ介入し、コミュニケーションもできていたのに、翌朝カルテをみると亡くなっていたということもある。病院で働いている以上、理学療法士も人の死に関わるのである。
「では次新患お願いします。」
「はい。えー、7-Aの斉藤まきさん、うっ血性心不全で心リハ、同じく7-Aの・・・」
 新患とは、新規患者のことでリハビリオーダーがあった患者さんの報告である。新患紹介を行っているのは、リハ医の中山先生である。中山先生というのであるから、この方はドクターであり、外科の先生、内科の先生と同様、リハビリテーション科の先生である。体の大きな男性の先生で、好きなことは食べること。”医者だって食べるのが好きなんだ”と、出張から帰ってくるとご当地グルメのお土産話をしてくださり、ご当地限定お菓子をリハスタッフのために買ってきてくださる。その丸々とした体は旅館の入り口に置いてある真楽焼のたぬきの置物のようである。優しい話し方で、リハビリで辛い訓練をしなければいけないのだろうと考えている患者さんに安心感を与えている。中山先生の隣に座っている今日の予定が書かれているメモ帳を真剣に見ているのが、同じくリハ医の佐々木先生。頭脳明晰な女性の先生で、仕事と話すのが速い。どんな仕事でもテキパキとこなす様子はイソップ寓話の「ウサギとカメ」に出てくるウサギに“さぼる”ということを忘れさせ、カメと競争し、ぶっちぎりでゴールした後、また次の対戦相手と競争するような敏捷さである。女性の患者さんは、やはり女性の先生の方が安心して心身の悩みを相談できるに違いない。
 リハ医は主に他科から紹介された患者さんを診察し、リハビリの適応があるか、また必要と判断した場合、訓練処方を書き、どのような訓練が必要か、注意することは何かを判断し、リハ処方を行う。リハ医は人数が少なく、2019年11月の時点で2350名である※19。リハ医の求人倍率は様々な診療科のなかでも最上位であるが、人数は全国的に不足しているため、緑野総合病院のようにリハ医が常勤している病院は珍しいのが現状である。理学療法士は医師の指示のもと理学療法を行うため、リハ医に処方されたリハ処方に基づいてリハビリを行うのである(疾患によっては他科の先生から直接オーダーが出されるものもある。)。
「それでは朝カンファを終了します。本日もよろしくお願いします。」
 村田科長が終わりの挨拶を告げた。こうして本日の臨床業務が始まるのである。

※18 山内弘継・橋本宰(監),岡市廣成・鈴木直人(編):心理学概論.株式会社ナカニシヤ出版, pp312-315.2006 参考
※19 医学生・研修医の方へ | 公益社団法人 日本リハビリテーション医学会. https://www.jarm.or.jp/pr/ 参考

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