リハビリつれづれ 3

 次の患者さんは中野ウメさん、御年八十八歳の女性である。診断名は脊椎圧迫骨折。シルバーカーで歩いていたところ、転んで尻もちをついてしまい、背骨を骨折してしまったのだそうだ。今日でリハビリを開始してから二週間の患者さんである。
 中野さんは、八十八歳とは思えないほどしっかりされた方である。私が挨拶をすると、「おはようございます。よろしくお願い致します。」
 と、ちょこんと頭を下げお辞儀をしてくださる。背骨の骨が折れているため、お腹にプラスチックの硬性コルセットが巻かれているので、背中の部分は曲げられない。そのため、お辞儀自体は小さな動きであるが、その行動に人間としての大きさを感じる。また、硬性コルセットの上から紫色のカーディガンを羽織り、えんじ色のリハビリシューズを履いているため、服装を気にする点からも中野さんの上品さが伝わってくる。
 入院前の生活は、独居であり、戸建ての一階で生活していた。自宅はバリアフリーとなっており、玄関、廊下、トイレ、お風呂に手すりがついている。玄関先に段差が一段、その他大きな段差はなし。寝具は通常ベッドを使用している。重い買い物は生協の宅配を利用、小さな買い物はシルバーカーで徒歩十分のところまで買い物に行っていたそうだ。介護保険は要介護1でヘルパーさんが週に二回来ている。息子さんが東京にいるのだが、
「ときどき会いに来てくださるんですか?」
 と尋ねると、
「息子は息子で忙しいからね。」
 と。あまり会いには来ていないようだ。
 理学療法士は大体これくらいの量の情報を患者さんの初回介入時に問診する。ここまで細かく患者さんの生活環境を聞くのは、別にこの後、現金の隠し場所を聞き、目出し帽を被って泥棒を働くためではない。患者さんの身体状況を評価して、かつ患者さんの生活環境を理解して、何がこの患者さんにとって問題となっているのかを整理しておかなければならないからである。ただ、現金の隠し場所を聞かなくても、患者さんから聞いたこれらの情報は当たり前として個人情報であるため保護されなければならない情報である。私は担当する患者さんの全員のこの情報を持っている。理学療法士は簡単に患者さんの個人情報を手にすることが出来てしまうため、個人情報漏洩の第一人者となる可能性が高い。患者さんを守るためにも、個人情報を正しく管理することは義務なのである。
 中野さんは腰が丸まっている、いわゆる円背姿勢である。この円背姿勢は、背筋の筋力が弱ったり、背骨の可動性が少なかったり、生活環境などさまざまな要因により生じる。また、骨粗鬆症も原因の一つである。骨粗鬆症は女性ホルモン(エストロゲン)の関係で閉経後の女性に多い※5。この骨密度が低下しもろくなった骨に対して、転んで尻餅をついたり、重い荷物を持ち上げたり、時にはくしゃみをするような軽微な衝撃でも骨折してしまい、背骨の形が変形した状態で骨折が治ることで背骨の形が曲がってしまうのである。この骨折の厄介なところは痛みを感じないこともあるということである。“いつの間にか骨折”と言われることもあり、レントゲンを撮ってみたら骨折していたなんてこともあるのである。痛みを感じないのならほっといてよいかと思うが、背骨を骨折することでさらなる背骨の骨折のリスクが高まる。そしてどんどん円背が進むことで呼吸のしにくさや、食欲低下、飲み込み(専門用語で嚥下という)のしにくさというような障害が生じてくる。そして背骨の影響は他の関節へも影響をもたらす。股関節が曲がり、膝も曲がった姿勢となり、このバランスを取りにくくなった姿勢は疲れやすくなるだけでなく、歩く際の転ぶ危険性も高める。また、背骨というものは神経を守る役割も果たしている。脊椎圧迫骨折の場合、背骨の中の脊髄神経が障害される可能性は低いが、骨折が重度である破裂骨折の場合は脊髄神経が圧迫されることで神経障害、例えば下肢の痺れや筋力低下、中には感覚異常をきたすこともある。そこまで痛くないからと言って甘く見てはいけないのがこの脊椎圧迫骨折なのである。
「中野さん、痛みはどうですか?」
「おかげさまで大丈夫です。先生から教えていただいた起き上がり方で起き上がると腰が幾分か楽になりました。」
「それはよかったです。腰はひねらないように気を付けてくださいね。では血圧計らせてください。」
 中野さんはリハビリ開始時に起き上がる時の腰の痛みを訴えていた。圧迫骨折をされた方は起き上がる時に痛みを訴えることが多く、立ったり、歩いたりするときには痛みが少ないことが多い。そのため、寝返りの時には膝を立てて体を丸太のようにして寝返りをして、起き上がりはベッドのギャッチアップ機能を利用し電動で起き上がるようにお願いした。この痛みの改善は起き上がり動作指導の賜物なのか中野さんのお世辞なのかは分からないが、骨折部に負担がかからない動作を実践していただいてくださっているのは理学療法士として嬉しい限りである。
 中野さんは入院中お食事があまり取れていない。
「この病院のお食事は美味しいですよ。私はもともと小食なの。」
 と言ってくださるが、摂取量は半分程度。入院中の活動量の低下や入院というストレスが食事量の低下に繋がっているのかもしれない。ご飯が食べられなければ運動なんてできないのは承知の事実であるため、運動負荷量も調節しながら運動を実施している。今日はストレッチ、準備体操をした後、平行棒の中で歩行練習を実施している。
「中野さん、疲れは大丈夫ですか?」
「この棒の中で歩く分にはいくらでも歩けますよ。」
「無理はしないでくださいね。中野さんは頑張り屋さんですから。」
「私はそんなに頑張り屋ではないですよ。無理せず無理せず生きていたらこんなに年を取っちゃったの。」
「そんなことないです。それだけ健康にも気を遣われていたからこそ中野さんはこんなにお元気なんですから。」
「でも今回は転んじゃったけどね。」
「そうですね。もう転ばないように体力をつけておかないといけないですね。ここで一回休憩にしましょう。中野さんはおしとやかな方ですが、座る時はより一層おしとやかに座ってくださいね。」
「ふふっ。分かりました。おしとやかにね。」
 中野さんは手すりを両手でしっかりと掴みながらゆっくりと座る。勢いよく座る際の衝撃は背骨の骨折部に高い負荷がかかってしまうため、動作指導としてゆっくり座る必要がある。ただ、中野さんの場合、コルセットをしているため座りにくいのもあるが、手を使わないとゆっくり座れないほど下肢の力が弱いということもある。
「中野さんは病室で何をされていることが多いんですか?お時間を持て余しているのではないですか?」
「そうなの。病室にテレビもあるけど、私はもともとテレビあんまりみないから飽きちゃって。ベッドで寝てることが多いわね。でもそれだと看護師さんにだめって言われたから、今息子に本をお願いしているところなの。私の家にある本なんでもいいから数冊持ってきてって。」
 入院生活で日中寝ている時間が多いと、中には昼夜逆転してしまう方もいらっしゃる。もちろんご病気で体調が悪く、寝ているほうが楽という方もいらっしゃるが、可能な限り昼間は起きていて夜眠るという生活リズムは崩したくない。ただ、日中何もやることがないのに体を起こしておいてくださいというのも酷な話である。日中はテレビをみるだとか、新聞を見るだとか、お元気であればデイルームという休憩室に行って家族と電話をするだとか、その人の過ごしやすいように日中の寝ている時間を少なくするということは大切なことである。
「そうだったんですね。中野さんは本がお好きなんですか?」
「そうねえ。もともと家でも外に出るのがあんまり好きじゃなくって、おうちが好きな人なの。旦那は活動的な人だったからもっと動け動けって言われたけど。そんな旦那の方が先にがんで亡くなっちゃた。」
 私は相槌を打つことしかできない。
「でももともと家でも本を読んでることが多かったかもしれないわ。本っていうのは面白いのよ。本当に自分に合った本というのは、自分の世界観を変えてくれるの。本を読み終えて本の世界から現実の世界に戻ってくると、なんだか現実の世界の景色が変わっているの。脳みそがぼんやりしている感じというか、すっきりしている感じというかなんとも表現できない感じ。あの夢心地みたいなふわふわした感じがいいのよね。」
「本いいですよね。私もときどき読みます。中野さんはどんな本がお好きなんですか?」
「どんな本でも好きよ。ミステリーだったり恋愛だったり。活字だったらなんでもいいの。でも最近は古文を読んでることが多いかしら。」
「古文ですか。学生の時に習ったのですが、文法が複雑で全然分からなかったです。」
「文法なんて私も分からないわ。古文の面白さはそこではないの。人っていうのは昔っから同じような考え方をしてるってことが古文を読めばわかるのよ。現代の人の悩みも、昔の人の悩みと同じだったりするの。恋愛だとか、道徳だとか。よく年を重ねると、“最近の若者は”っていうけど、これは昔っから言われてることなのよ。日本でも鎌倉時代にそうやって言ってる人がいるんだから。現代を生きるお年寄りは鎌倉時代の人からみれば、ひよっこのひよっこですからね。きっと鎌倉時代の人は現代のお年寄りに対して、“最近の若者は若者の文句ばっかり言って。”って言ってると思うわ。」
「なるほど。古文って難しいイメージがあったんですけど、そのようにみるととても面白そうです。」
「そうよ。食わず嫌いはよくないのよ。人間は変化するのが苦手な生き物だから、新しいものに挑戦しないの。自分が知らないものは難しいだとか、怖いだとか、なにかと理由を付けて現状維持しようとするの。ちなみに私はスマートフォンがすっごく難しいの。」
 おちゃめな顔をして笑う中野さんからは老いというものを感じない。
「スマートフォンですか。いろんなことが出来るからこそ難しいですよね。」
「そうなの。電話とメールは何とかできるんだけど、他に何ができるかはよくわかってないわ。」
「私はその二つが使えていれば十分だと思います。あんまり多くのことを求めようとすると夢中になってしまって肌身離さず持ってないと気が済まなくなってしまいますから。」
「そうよね。人間欲張ってはいけないわね。」
「それではもう一回歩きますか?」
「よろしくお願いします。」
 中野さんは平行棒を両手で掴み立ち上がった。平行棒を片手で支えながら小股で歩く小さな背中は、人間は年齢には逆らえないということを証明している。人間は必ず年を取り死んでいく。ただし、人間が築いた文明というものはどのような方向であれ、著しいスピードで発達していく。文明というのは、先輩たちが後輩たちにつないで発達させてきたものなのである。もちろん後輩は、進化していく新しきものに対応していくことが大事であるが、ときには文明の発達の速度についていけないことだってある。そして、このような経験を先輩たちも経験しているはずである。温故知新。迷ったときには人生の先輩方から学ぶことも大切かもしれない。

※5 小澤瀞司・福田康一郎(監),本間研一,他(編):標準生理学,第8版.p961.2014 参考

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