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悲しいほどお天気、を味わえる心を
ただ単に「天気」、
っていうと晴れも雨も雪も嵐も曇りもすべて含んでいるニュアンスがありますが、そこに「お」を付け「お天気」となると、雲ひとつない「晴れ」一択の印象となります。
ああ、いいお天気、と。
お天気は体も心も開放してくれる。どこかへと出かけたくなる。笑顔が似合う。
でもそれは自分の心や境遇がお天気にふさわしい充足があってこそのこと。
そうでない時のお天気は、どう表現するか。
天才はこう表現します。
「悲しいほどお天気」
70年代終わりから80年代にかけて否が応でも引きずりこまれてしまったユーミン世界。
ユーミンの描く夢のような日常は、手の届きそうなところにあるように見えて、その境界には薄いけれど丈夫なベールがあり、容易に突き破ることができなかった。
ベール越しに見える華やかな世界〜スキーやドライブやサーフィンやファッションや、そして恋愛〜は、お金と度胸とチャンスのない地方の10代20代にとってはけっして等身大ではなく、かなりのミニチュアバージョンだった。
それでも、ユーミンの描く世界は憧れだった。
そんなユーミンの、1979年の名作が「悲しいほどお天気」です。
夏の盛りもそこだけ涼しい上水沿いの小径で、美大生たちは絵のスケッチをしている。
けっして固まって、ではなく、それぞれ一人で。
それぞれの一人は、でも、信じている。
「みんなずっと一緒に歩いていける」と。
でも<私>だけは、予感を感じている。
それぞれ一人で絵を描くその姿を、「その先の人生を暗示するよう」だと。
時は過ぎ、それぞれは学校を卒業する。
ある日、「拝啓 いまはどんな絵 仕上げていますか」と個展の案内が届く。
でも<私>はもう絵を描いていない。臆病だった私は平凡に生きている。
そして思い出す。
<私>の心のギャラリーにある、あの頃<あなた>が書いた絵の風景を。
それは「悲しいほどお天気」
上水沿いの小径でともに絵を描いていたときの<風景>は、おそらく悲しさの欠片もなかったのでしょう。
眩しいほどの日差しが降り注ぎ、濃い青に浮かぶ雲たちは立体的で、チューブから絞り出したままの絵の具を積み重ねた木々の緑は生命力に満ち溢れ、<悲しい>なんていう形容詞とは程遠い風景であったはず。
でも<私>は、いつしか、一緒に歩いていけると信じていた道を一人外れ、平凡と称する毎日を送ってしまっている。
だから、あの頃鮮やかな色彩で彩られていた、あなたが描いていた風景は<悲しいほどお天気>
川端康成の「雪国」にも<悲しいほど>は出てくる。
雪国に着いた汽車の窓から馴染みの駅員さんに声をかける葉子さん。その葉子さんの声を、川端は<悲しいほど美しい声であった>と表現しています。
「雪国」には、この<悲しいほど>はその後も何度が出てくる。
こうしてみると<悲しいほど>という表現は、絵や声そのものが悲しいわけではなく、それを受け取る側とのギャップから生まれる表現だということがわかります。
この歌をはじめて聴き、何度も繰り返し聴いた頃、まだ自分は学生で、いくらだって好きな風景を描こうと思えば描けた、いま思えばウソのような時期でした。
この歌で描かれたどっち側に向かうかも分からなかった。
けど、当然、向こう側〜上水沿いの小径の先へと続く真っ直ぐな道を〜を歩いていける、と信じていた。
で、果たして、いま、どっちなんだろう。
10代好きだった映像や音楽や言葉に関わる仕事に就けているから向こう側といえば向こう側だけど、ど真ん中ではない。かろうじて引っかかっている程度の向こう側。
いま、優れた映画や映像作品や、文章に出会うと、かなりの嫉妬を感じてしまう。
自分の才能や能力とは差を突きつけられて、悲しいほどのお天気を感じてしまうことだってある。
でも、開き直ろうと思う。
悲しいほどのお天気感を感じなくなってしまったら終わりだ。
予算が違う、才能が違う、条件が違う、技術が違う、経験が違う、度胸が違う、と諦めてしまったら終わりだ。
悲しいほど曇り空でも悲しいほど雨模様でもなく、お天気だと感じる気持ちさえあればそれでいいと思っている。
森下典子さんの「日々是好日」のなかにこんな文章があります。
「雨の日は、雨を聴きなさい。心も体も、ここにいなさい。あなたの五感を使って、今を一心に味わいなさい。そうすればわかるはずだ。自由になる道は、いつでも今ここにある」
私たちはいつでも、過去を悔やんだり、まだ来てもいない未来を思い悩んでいる。どんなに悩んだところで、所詮、過ぎ去ってしまった日々へ駆け戻ることも、未来に先回りして準備することも決してできないのに。
過去や未来を思う限り、安心して生きることはできない。道は一つしかない。今を味わうことだ。過去も未来もなく、ただこの一瞬に没頭できた時、人間は自分がさえぎるもののない自由の中で生きていることに気づくのだ。
雨は降りしきっていた。私は息づまるような感動の中に座っていた。
雨の日は、雨を聴く。雪の日は、雪を見る。夏には、暑さを、冬には、身の切れる王な寒さを味わう…どんな日も、その日を思う存分味わう。
お茶とは、そういう「生き方」なのだ。
そうやって生きれば、人間はたとえ、まわりが「苦境」と呼ぶような事態に遭遇したとしても、その状況を楽しんで生きていけるかもしれないのに。
私たちは、雨が降ると「今日は、お天気が悪いわ」などと言う。けれど、本当は「悪い天気」なんて存在しない。
雨の日をこんなふうに味わえるなら、どんな日も「いい日」になるのだ。毎日がいい日に…
(中略)
「日々是好日」
’(中略)
「目を覚ましなさい。人間はどんな日だって楽しむことができる。そして、人間は、そのことに気づく絶好のチャンスの連続の中で生きている。あなたが今、そのことに気づいたようにね」
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