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どうせ国が終わるなら革命させてもらいます。何度でも読み返したい「持続可能な魂の利用」

「おじさん」が支配する国・日本。
「おじさん」たちによって消費の対象とされている少女たち。
(「おじさん」作詞による)革命の歌を歌う(「おじさん」によって演出されている)アイドル。
そして最後には、そのアイドルが日本の<アレ>となり、「おじさん」たちを駆逐していく。


なんちゅうおもしろさ。とんでもないカッコよさ。
カッコいい、なんて、小説にはふさわしくない賛辞かもしれませんが、ここに出てくる登場人物は、「おじさん」を除いてすべてがカッコよく、オッサン世代としては自分を見つめ直すための必読書でございます。


読了後、すぐまたもう一度読み返してしまった。
これまでも、数年置いて読み返す小説はあったけれど、連続しては、はじめてだった。
それほどまでに、圧巻の小説です。


作者の松田青子さんはインタビューでこう言っています。

「今も現実でもびっくりするようなことが毎日のように起きていますが、自分の中で全部『おじさん』のせい、という気持ちがあります」

この小説は、冒頭いきなり、おじさんから少女の姿が見えなくなる、という現象の描写からはじまります。
おじさんからは少女の姿は見えないが、逆に、少女は今まで通りにおじさんは見えている。
つまり、少女たちにとっておじさんは、電信柱や道路脇の看板のような障害物で、避けることがふつうにできてしまう。


それによって少女たちに何が起きたか。
至極シンプルな答えがそこにはあります。

おじさんの視線に悩まされることがなくなった。

頬に、まつ毛に、後れ毛に、胸元に、制服のスカートの裾に、太ももに、足首に、何もはりつかない、まとわりついてこない。
ねっとりとした、あの嫌な感覚が世界から消えていた。

「持続可能な魂の利用」


そんな衝撃的な数ページのあと、舞台は現代へと移ります(戻ります)。

主人公は上司のハラスメントにより退職した30代の女性・敬子。
妹の暮らすカナダで一ヶ月を過ごしたあと帰国。久々に触れた日本の少女たちに違和感を覚えます。


これでは負けてしまう。敬子の頭の中になぜだかそう浮かんだ。何に?誰に?

「持続可能な魂の利用」

そう感じた敬子は、たまたま街頭テレビに流れていた、某アイドルグループの、センターで歌うアイドルの姿に衝撃を受けます。

彼女は冷たい、射るような眼差しをして、敬子を見ていた。相手の心を竦ませるような、まっすぐな目。媚びていない、なんてレベルではなかった。まるで世界に喧嘩を売っているようだった

「持続可能な魂の利用」


このアイドル、文中では✕✕と名を伏せてはいますが、明らかに元欅坂46の平手友梨奈。
オッサン(わたしのこと)だってすぐに分かった。

で、敬子は✕✕にのめり込んでいく。YouTubeを見まくり、CDを買い、のめり込んでいく。

✕✕に惹かれながらも、✕✕が所属するグループら量産型アイドルの仕掛け人には、おじさんであるあの男がいる(固有名詞は伏せていますが、そう、まさしく「おじさん」、あの男です)

無表情でレジスタンスな歌を歌う✕✕だが、しかしでも、その詞は「おじさん」が書いている。

すべての背後に、「おじさん」の影が漂っている。ああああ。


こうして物語は、「おじさん」に支配されているこの国の現状、量産型アイドルの分析、少子化、ハラスメント、マウント、性的な消費対象としての少女、そして「制服」についてのエピソードが散りばめられていきます。

そして徐々に女性たちの生活の日常的な部分から変化が生まれていく。
変化の波は次第に大きくなっていく。

どうして「おじさん」は、女性同士が情報を共有していることに思い至らないのだろう。知らないのかもしれないが、女たちは話すのだ。表向きはなんでもないふりをしているが、裏でセクハラやパワハラをするやつの愚痴や悪口をただ言い合っているようで、それは立派な情報交換なのだ。情報は女を守り、救うのだ。たぶん、「おじさん」は、そういうつながりを持ったことがないのかもしれない。だから、わからないのだ。だから、恥ずかしくもなく、嘘をつき、自分の都合の良い勝手な物語をつくろうとするのだ。そんなのバレバレなのに

「持続可能な魂の利用」

「どうやればいいのかとか、タイミングとか、そういうの全然わからなかったし、本当にできるのかも自信なかったですけど、でも、いざとなったら、できました。あの男も、非正規の、違う部署の女の人たちがつながるなんてことないと思ってたから、ああいうことしたんですよね。ムカつく。だから、つながってやりました。だから、わたしたち、つながって、やってやりましょう」

「持続可能な魂の利用」

✕✕たちの楽曲は、大人たちが、男たちが、女の子に歌わせるためにつくった、彼女たちの自発的な声ではないはずのものでした。それはつまり、世の中の話題になることを狙った、打算的な歌のはずでした。
ところが、ここで逆転が起こります。
お人形のように、与えられた楽曲を披露するだけの役割を負った女の子たちは、その歌を生きはじめてしまいます。
(略)
「わたしたちは革命について歌ったのだから、革命を歌ったのだから、革命をしなくてはならない」

「持続可能な魂の利用」


そして革命が起きる。
どんな革命かは読んでのお楽しみ、ということで。

ここ数年の現実社会でのカギカッコ付きの「おじさん」たちの言葉や行動に感じる違和感がフィクションのなかに巧みに織り込まれていて、「今」だからこその小説の力を存分に感じてしまった。

こんな文章だって出てくる。

国民の生活が次々と切り詰められていくのにオリンピックや万博が開催されると発表されたときも、環境に対してなんの知識もないに違いない男が環境大臣に任命されたときも、何かおかしい、この国は何かおかしいと、違和感なしでは一日だって暮らせなかった理由がようやく与えられたのだった

「持続可能な魂の利用」


女が大統領になるくらいだったらあらゆる面で醜悪な「おじさん」を大国の大統領に据えて世界を危機に晒すほうを選ぶように、急病人の命を救うことよりも男の聖域である相撲の土俵に女が上がることのほうが許せないように、深刻な環境破壊よりもそのことを真剣に訴える三つ編みの女の子の口調が気に入らないように、このままきっと「おじさん」によって国が滅び、世界が滅びる。「おじさん」によってみんな死ぬ。

「持続可能な魂の利用」

いまこれを書いている自分だって属性や分類によると確実にオッサン。
そんなオッサンだって、上に書かれたような事柄に対する違和感はずっと抱き続けていた。
なんかおかしいぞ。この国は。この国の統治者は。

70代80代が未だ支配力を行使している政治の世界。
「おじさん」に対する疑問は今に始まったことではなく、慢性的な課題であり症状であり、それをいち早く、このタイミングで物語化言語化してくれたことを奇跡と呼ぶのは松田さんに失礼か、いや、そう、失礼でした、必然に違いないから。

「おじさん」の視線にまとわりつかれていた女性たちにとっては、それらは永遠の厄介事で、根強く生き続けている男尊女卑的価値観の象徴でもあったに違いないから。


当事者でもあるオッサンのひとりとしては、気を許すとカギカッコ付きの「おじさん」になってしまいかねない隙だらけの身を、改めて見つめ直さねばいけません。

しかし「おじさん」ははじめから「おじさん」であったわけではなく、いつからどうしてカギカッコ付きの「おじさん」になってしまうのだろう。

幼い頃接していた「おい」と母を呼ぶ父の姿を見ていたからなのか、
元財務事務次官の女性記者に対する発言「おっぱい触っていい?」を本気になって糾弾してこなかったからか、
政治家や古い価値観の男たちの「早く子ども産め」発言を笑って見過ごしてきたからか、
なんだか根深い。

そして厄介なのは、そんな「おじさん」たちの多くが権力を持っていること。
権力を持つ「おじさん」には権力にすがりたい「おじさん」がたかり、すがり、おだて、甘やかしている。そしてさらに「おじさん」は増殖していく。増殖してきた。

そんな「おじさん」連鎖を止めるには、「持続可能な魂の利用」のような、一見荒唐無稽に見える荒療治しかないかもしれず、✕✕が日本の<アレ>になって改革をすすめる姿には、拍手を送ってしまう。

と、オッサンであるわたしは「持続可能な魂の利用に」拍手喝采なのだけど、本書でいう「おじさん」のなかに自分はいない、自分を含めていない、そんな前提で今書いているのが一番のホラーなのかもしれない。

女性が読むと勇気が出る一冊だけど、一番読むべきは「おじさん」ですね。

2023年5月文庫版が出るけど、単行本の装丁(横浪修さんの写真)がこれまたカッコいい。

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