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マイ・ライフ・サイエンス(32)「富士山の色」

 「いま飲まれているのは?」
 「あ、これはアブサンというお酒です」
 「アブサン。アブサンは私の父もよく飲んでいました。家ではなく、どこかのバーで」
 「よく飲まれていた?」
 「はい。画商だったせいかどうかはわかりませんが、父の友人たちもアブサンが好きだったようで、フランスかぶれだと、自重気味に話をしていました。ロートレックでもゴッホでもないが、とも」
 「ロートレックやゴッホや…」
 「そうです。ロートレックやゴッホや。父は若いころ、大学院で葛飾北斎を研究していたようです。パリの画家たちにとっての北斎のベロ藍の使い方とか、小難しい論文を書いて博士号を取ったようです。とにかくその時代、アブサンを楽しんでいたパリの画家たちの時代が好きでした。私が生れる前には、身重の母を日本に残して、ひとりでふらふらとフランス旅行をしたような、奔放な父でした。私には何が何やら、父の趣味にはまったく興味もなくて」
 「ベロ藍?」
 「サトルさん。ベロ藍とはね」と、デザイナーの大原が、手を差し伸べてくれた。
 ベロ藍とは十八世紀始め、ベルリンの錬金術師が発明した顔料で、プロシアン・ブルーやベルリン・ブルーと呼ばれていて、日本ではベロ藍とか紺青(こんじょう)と呼ばれた青い顔料のことだ。葛飾北斎の晩年十八世紀中ごろには日本に入っており、平賀源内や伊藤若冲なども使っていたが、葛飾北斎の「富嶽三十六景」の波の色などが有名で、ゴッホ、セザンヌ、モネ、ゴーギャンやルノワールに影響を与えたことは誰もが知るところだ、という。
 「つまり、『富嶽三十六景』でベロ藍を大胆に使った北斎の技法が、パリに逆輸入されたようです」
 大原は二杯目のアブサンを胸元に抱え、ひとりで昔のパリへ旅立った。
<中嶋雷太著「時を、消す」より>

 これは、2022年10月に発行した拙書「時を、消す」の一部です。(ご興味あればぜひ、お読みください)
 本書の執筆を始めたのは2022年の春ごろで、新型コロナ禍真っ最中でしたが、複数の小説を並行して書いていたので、息抜きに南青山にあるバーによく顔を出していました。「時を、消す」は、そのバーを舞台にした時間を巡る物語です。
 先日、ある知人から、富士山の色の話を聴き、冒頭の小説での会話を思い出しました。
 その知人の生まれ故郷は富士山が間近に見えるある町で、小学生のころの話のなかに富士山の絵の話がありました。富士山の近くに生まれ育った彼女たちは、富士山の絵を描くと、その山体を暗めの青色で塗ったといいます。やがて、名古屋や横浜に住むことになって、自分の子供やその友だちが描く富士山の山体が茶色なのに驚いたという話でした。
 最初、「富士山の山体の色が暗めの青色?」と、とても不思議に思っていたのですが、ある日のこと、私が現在住んでいる湘南・片瀬海岸から富士山を見ると、確かに暗めの青色に見え、「なるほどなぁ」と納得しました。
 そこで思い出したのが、私の小説「時を、消す」の一部でした。
 葛飾北斎が描いた富士山は赤富士であったり黒富士であったりしますが、青富士とでも呼べば良いのか、確かにベロ藍と呼ばれた色を使い富士山の山体を描いています。有名な「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」ではあの大波の向こうにベロ藍の富士山が構図されています。
 さて、サイエンスです。
 私が住む湘南・片瀬海岸から見える富士山も「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」に描かれた富士山も、暗めの青色、つまりベロ藍色なのです。昨年10月までの数十年住んでいた東京・世田谷区から見えていた富士山や、それ以前に住んでいた国立市から見えていた富士山は、ベロ藍ではなく黒に近い茶色だったように記憶しています。なのに、湘南・片瀬海岸から見える富士山は、北斎がその目で見た通りのベロ藍です。
 もう、お分かりかと思いますが、おそらく海の近くから見える富士山の山体はベロ藍で、海から離れたところからは黒に近い茶色に見えるようです。つまり、海からの光が関係していると思われます。
 ご存知のとおり、海の色が青いのは、太陽光の赤色の光が海に吸収され海底で反射するからで、海辺はこの海の青色が基調とした光で満ちているはずです。そして、海の青色に満ちた光が基調の町に住む子供たちの目で富士山の山体を見るとベロ藍色に見えるのだと思われます。そして、北斎とは嘘偽りのない目で富士山を見つめていたのでしょう。
 自分が日常生活を営む場所ごとに、色彩感覚が微妙に異なるのだと考えると、私たちの色彩感覚の多様性は面白いものだと驚いてしまいます。そして、その土地土地の色彩感覚民俗史があるはずで、いつの日か、そうした視点でいくつかの町や村を見つめてみたいものです。そういえば、以前真夏に訪ねた岩手県の遠野や青森、真冬の奈良…等々もまた、言葉にはまだならない独特な色彩を感じたことがあります。中嶋雷太

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