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本に愛される人になりたい(33) ヴィーコ著「新しい学」

 このnoteで書き綴っている「本に愛される人になりたい」で登場させる本たちは、いずれも時代を超えて私の目を覚まさせてくれたり、ある種の気づきを与えてくれたものばかりです。
 今回取り上げるヴィーコ著「新しい学」は、私が物心ついた頃から本書に出会う20歳の頃までの、ぼんやりとした疑問に答えてくれた本で、我が人生の記念になった本でもあります。
 ジャンバッティスタ・ヴィーコは、1668年に生まれ1744年に亡くなったイタリアの修辞学者・哲学者で、本書「新しい学」は1725年に発行されました。
 本書が発行された1725年頃のイタリアは弱体化の一途を辿っており、ミラノ公国、ナポリ王国、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国やフィレンツェ共和国などが群雄していた時代も、神聖ローマ帝国の消滅の影に覆われていました。フィレンツェなどの都市国家では、13世紀には産業革命の下地になる毛織物産業などの工業が発達し始めていましたが、現代に繋がる産業革命はヴィーコが亡くなった後、イギリスでの紡績機や蒸気機関の発明・発達からとなり、世界史では1780年代に産業革命が訪れたとされています。この近代化をもたらした産業革命に向かう重要な考え方を提示したのがルネ・デカルト(1596年〜1650年)で、彼の合理主義的な哲学は、物事を客観的な知識で科学することといえば良いかと思います。合理的な精神で、中世の因習の暗闇を突破した先に、現代に繋がる産業革命が勃興したわけですから、近代国家に住む人々はデカルト主義者であることが賢者の証のようになってきたはずです。日本でも明治維新政府が推進した近代化から、最近の例ではメタバース議論まで、客観的風味な知性は未だに尊ばれています。
 一方で、このデカルト主義がもたらす非人間的な問題も多々発生しています。
 さて、ようやく私にとっての本書についてですが……。簡単に言えば、「1+1=2で良いのか?」という話に尽きます。例えば、人にはそれぞれ個性というものがあります。十人十色です。これを近代理性主義、デカルト的な客観的知性にすれば、10=10。それぞれの"1"が持つ個性などは顧みられません。マクロ経済学という大枠に国民をはめ込め、結果誰もが不幸になるようなものです。
 鶏舎に均等に隔離された鶏もまた、卵生産には効率的で良いのかもしれませんが、子供たちの成育にも同じような均等隔離を行えば良いのかというと、人間としての文化的な膨よかさを殺す道具になっているかと思います。もちろん極端な話をしていますから念のため。
 翻訳者の清水幾太郎さんはこの新しい学について、「世界の名著33 ヴィーコ」(中央公論社)の序文「私のヴィーコ」で次のように語っています。
 「…神が作った自然というリアリティの世界、人間が作った数学というフィクションの世界、それに加えて、もう一つの世界がある。ヴィーコの『新しい学』は、もう一つの世界の姿を明らかにするために書かれたものである。もう一つの世界は、一方、神でなく人間が作ったものであり、他方、フィクションでなくリアリティである」
 反デカルト主義の立場を宣言した「新しい学」は、当初はあまり顧みられませんでしたが、現代に繋がる考え方の源として静かに、けれど深く広く根を伸ばしてきています。クロード・レヴィ=ストロース(1908年〜2009年)、ロラン・バルト(1915年〜1980年)、ミシェル・フーコー(1926年〜1984年)…等々、現代の哲学や人類学の大家たちの書物を読むにつけ、ヴィーコが唱えた「新しい学」は今も息づいているかと思います。中嶋雷太

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