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メタバース ・クリエイティブ・ノオト(9)

 気づけば、前回の第八話から五カ月が経過していました。
 今夏、『中嶋雷太小編集第二集:現代幽霊譚』をデジタル発行し、さらに『復讐のインゴット』→『悲しきガストロノームの夢想I』→『言霊喰み』→『大崩壊時代のエア:始まりの記』と怒涛の編集作業の嵐に見舞われてしまい、なかなか本シリーズ『メタバース ・クリエイティブ・ノオト』に取りかかれずにいました。
 前回第八話では、近代化以降の視覚優先主義を超え、全感覚でもってメタバース 世界でクリエイティブを目指すべきだという話を綴り、VRという地勢での作庭師の話へ続くとしました。
 さて、メディア論者であるマーシャル・マクルーハンによれば「すべてのメディアが人間の感覚の拡張であるが、同時に、それは個人のエネルギーに課せられた『基本料金』でもある」(「メディア論ー人間の拡張の諸相」みすず書房)とし、彼は人間のどのような機能がどのようなメディアによって拡張されてきたのかを論じています。衣服は皮膚の拡張、自動車は脚の拡張、テレビは視覚の拡張…等々。
 彼の「メディア論」に初めて触れたのが、父が蔵書として持っていた竹村健一さんの翻訳本「人間拡張の原理」で1967年発行だったと思います。まだ中学生になったばかりだったと思いますが、この本を手にとって読み、私は目から鱗状況になったのを覚えています。
 行きつ戻りつで恐縮ですが、ならばメタバース というメディアは、人間の何の拡張かを考えると、人間のこの三次元的な感覚機能と全感覚の拡張ではないかと想定できます。
 すると、それと同様のクリエイティブ作業がかつてあったことに気づきます。つまり禅庭の作庭師のクリエイティブ作業ではないかと思います。
 私の心に鎮座しているのが、天龍寺などの作庭師の夢窓礎石の言葉「山水には得失なし、得失は人の心にあり」(「夢中問答集」)です。つまり、本来山や川の自然には「損」や「得」という概念はなくて、そうした自然に損や得を見つけてしまうのは、それを見つける人の心に損や得があるという意味です。
 これは、環境(自然)に意味づけするのはそれを見たり感じたりする人間によるもので、そうした意味づけを超えることを指しているのだと思っています。そして、この考え方は現象学者エドムント・フッサールが「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」などで唱えた現象学的還元にとても類似していると思っています。この現象学的還元とは、私たちが日常生活の感覚として、暗黙に前提だとしている事柄を一度取りやめ、あるがままを認識しようとすることだと言っても良いかと思います。
 夢窓礎石の「夢中問答集」が1340年ごろ、そしてフッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」が1936年。およそ六百年の時間差がありますが、そこで世に問うたところが重なって見えてきます。
 夢窓疎石が生きた鎌倉時代末期から室町時代初期は、戦国時代に向かう動乱が胎動しており、それがゆえに人々は禅宗という宗教を求めたように思われます。片や、エドムント・フッサールが「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」の第二節の表題にその危機が語られています。「第二節 学問の理念を単なる事実学に還元する実証主義的傾向。学問の『危機』は、学問が生に対する意義を喪失したところにある」(「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」中公文庫)と。近代の理性主義への警告を彼は発したわけですが、この大元のところにあるのは、本シリーズ「メタバース ・クリエイティブ・ノオト」第八話に綴ったジャンバティスタ・ヴィーコに遡ります。ヴィーコは18世紀に反デカルト主義を標榜した人物です。
 さて、21世紀の作庭師。つまりメタバース というデジタル空間でクリエイティブに挑む者として求められるのは、これまでの2D的な発想を一旦「現象学的還元」し、まっさらなクリエイティブの地平に我が身を置き、人間の全感覚の拡張メディアとしてメタバース というデジタル空間で何を描いていくのかです。
 もし、それができずに2D的な発想をメタバース というデジタル空間に押し込め自己満足し内輪ぼめで終えるなら、メタバース というせっかくのデジタル空間は何ら面白味もなく、人間の感覚を拡張することもなく、そのまま枯れ果ててしまうだろうと推察しています。
 先日、「ママ・ザ・ラスト・シューティスト」という物語を書き終えました。その物語はリアルな生活とメタバース というデジタル空間が交錯する犯罪ミステリーになっています。次稿では、私が書き終えたこの物語をベースにして、具体的なクリエイティブ作業のあり様を綴れればと思っています。
中嶋雷太
 



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