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本に愛される人になりたい(72) アラン・シリトー「私はどのようにして作家となったか」と「土曜の夜と日曜の朝」

 前回のnoteで「長距離走者の孤独」を取りあげてから、さらに書棚から彼の「私はどのようにして作家となったか」と「土曜の夜と日曜の朝」を取り出し再読していたので、今回もアラン・シリトーのお話です。
 巷にはITごっこをすれば良いという風潮があり、Z世代は凄いと言えば良いという風潮がありますが、Facebook等のSNSが登場したあとに生まれた人びとはちょうど20歳かそれより下の人びとなので、Z世代とは知っているフリをしている古い世代なのだろうと、メディア論的には思います。もちろんZ世代が新たな消費者としてSNSのマーケットをいっきに拡大させたのは事実ですが、やはり生まれた時に「その」メディアがある世代こそ新たなメディア世代で、残念ながらZ世代と喜んでいる人たちは、すでに古い世代なのでしょう。とはいえ、数百年前から同じことを繰り返している人間という動物ですから、俯瞰してみると何も変わり映えしない人類史を辿っているようです。
 そんな日々にアラン・シリトーの作品を手にしゆっくり読んでいると、染み入るものがあります。「ぼくは、どうして作家になったのかという質問をときどき受けることがある。…ぼくにはこれ以外になるものがなかったのだ。あらゆる神秘を包んでいる複雑さも、説明してみれば簡単なことである。」(「私はどのようにして作家となったか」)とか、「だけどまあ、つまるところは、いい人生だしいい世界だよ、こっちが、へこたれさえしなければ。そして大きな広い世界にまだ挨拶状を出していないことにちゃんと気づいてさえいなければ。そうだよ、まだぜんぜん出しやしない、もう遠からず出せるはずだが。」(「土曜の夜と日曜の朝」)とか、アラン・シリトーの言葉を目で辿り、その言葉を私の心に送り込み、そして何かが発酵し私の意識をグラグラ揺らするのを楽しんでいると、世代論などつまらないことを改めて確認するわけです。
 アラン・シリトーのこの何でもない言葉ですが、彼の個人史を知ると、こんなに気軽に語れることの凄みを感じます。自分の名前の下で生きることの凄みとでも言うのでしょう。サラリした言葉の凄みは、私の脳幹を殴りつけてくれます。これは、一つのある読書の楽しみの形です。中嶋雷太

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