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孤独でいいんだ。というよりもむしろ、孤独でしかありえない。それが人間の姿だったのだ

2020年5月6日、『百年の孤独』ガブリエル・ガルシア・マルケス著、新潮社

読了。


折しも関東南部に落雷注意報が発令されていた夜更けに、まるで実際に稲妻にでも打たれたかと思うようなとても強烈な啓示的な発作的な衝動から、そしてなぜか読了まであと数ページ残した時点で、

「この本を読む前に死ななくて良かった!!」

と、小声だがめいっぱいの情熱を込めてつぶやいた。

そしてそのままむさぼるように読み進め、無事読了。

読了後の感無量、すごいものに触れてしまったという畏怖。自分の読書体験上最も大きな達成感を無言のままかみしめること数分。

その後に襲ってきたのは、

(これは読書感想文など書けるような代物ではない)

という挫折感だった。


私はTwitterに息も絶え絶えつぶやいた。


この物語は、私の持つ貧相な機能ではとても消化しきれず、この幼稚な頭では理解しきれず、貧弱な語彙力ではほとんど何も伝えられない。だが、
とてつもないものを読んだ。
この一言だけは何とか言える。たった一言、その言葉だけは。



Amazonのレビューを見ても、同じように「語れることはない」と言っている人たちがいて心強かった。

解説の梨木果歩さんにさえ、

こういう圧倒的な語りを前に、一体どういう「解説」が可能なのだろう。全く途方に暮れてしまう。

と言わしめてしまう、ガルシア・マルケス。

出版社から「解説」という重大な任務を任されたらそれは途方にも暮れてしまうだろうが、幸い私は無名のいち主婦。好き勝手に書けるというアマチュアの特権を存分に行使して、ここはひとつ、腹をくくろう。


と、いっても大変に情けない話で、この物語を読み進めるうちで私の中に常にブレずに潜んでいた感情は、実は安堵なのだ。

『百年の孤独』はタイトルそのままに、ブエンディア家の百年にわたる繁栄と衰退、一家のもの者に取り憑き異常なほどの執念で一瞬たりとも離れないヒルのような『孤独』が大きなテーマだ。


正直、ブエンディア家のひとりひとりが逃れようのない孤独と戦う(大抵は敗北し抗うことを諦め、最後には受け入れる)語りを聞いていて、

良かった。やっぱりみんな孤独なんだ。良かった。

と思い続けていた小さい人間なのだ。

ガルシア・マルケスの語りが淡々としているし、かなり過酷な状況にあってもごく当たり前のように「数年はこの状態が続いた」などと書かれるので、さらっと読み飛ばしてしまいそうだが、実際リアルな生活で(家を締め切ったままうん十年過ごしたり、4年11か月と2日、雨が降り続いたり、自分で何年がかりで作った金細工をまた金に溶かして一から作り直す、を死ぬまで繰り返すなど)、こんなことが起きたらと考えるとぞっとする。

貧しいながら希望とともに創設したマコンド村の初期のメンバーも、村が絶好調に繁栄した時代の村人たちも、完全に衰退した時代の一家の者も。

いつの時代の、どの登場人物も一様に幸せに長く浸れたためしがない。

日々の生活の雑務やどうにもならない物事、屋敷を荒らしまわる虫や植物や天候や男たちに振り回され、疲れ果てる女たち。

自分勝手にやりたいことだけやる大黒柱や女に溺れるもの、戦争や闘鶏に夢中になったり本人にしか見えない先祖の幽霊と一日中会話している男たち。

こういう人、いるいる!!!

と思う。
そして私はこの様な生活を既に知っている。

日々の暮らしというものは、基本的につらく苦しい。

さらに、

家族であっても、決して、すべてを分かり合えることなどない。

むしろ、1mmほどでも理解しあえれば御の字だ。

他人と自分の孤独を分かち合うことなどできない。

みな、この世に生れ出た瞬間から自分の孤独とのみ、共存することを強いられる。隣にいる人、それが母親であっても異なる宇宙であり決して助けてはもらえない。

孤独を抱えてふわふわと浮かんでいる事しか答えは最初からなかったのだ。

何をそんなに焦っていたのだろう。どうにかしようなんて無駄なことだったのに。

孤独でいいんだ。

というよりもむしろ、

孤独でしかありえない。

それが人間の姿だったのだ。


ほらここまで書いてきた今も、強く強く強く強く思う。


この本を読む前に死ななくて良かった。


ガブリエル・ガルシア・マルケス氏に感謝を。



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