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記憶の美化と現実

「子供の頃に戻りたい。」本当にそうだろうか。大人のいう子供の頃というのは、結局は美化された記憶に過ぎないもので、戻ったところで全ての悩みから解き放たれた自由な生活など到底手に入らないだろう。

 私は今高校生だが、他の人とは大分違った生き方をしていると思う。通信制高校に入って、毎日ひたすら塾で1人で勉強している。1人で一日中何時間も勉強していると当然集中など持つはずもなく、気づいたら過去の自分を思い出しては「あのときなぜこうしなかったんだろう、なぜ相手はこう言ったんだろう、あぁ、この経験おかげで、この人のおかげで今の自分があるのだ」とか沸々と色んな考えが湧いてくる。だが、最近気づいたのだ。私は思い出を美化しすぎている。昔大嫌いだった先生にありがたみを感じるのも、悪い態度をとった相手に申し訳なく感じるのも、私が今、客観視ができるようになって相手の善意を理解したからではなく、ただ物事の良いところだけを切り取って見ているからだと。

 私は昔目上の人と話す時、目が合わせられなかった。いつも斜め下を向いて話していたから、「なぜ目をあわせないのか、目線の先に先生はいないだろう」などと小学校では担任に毎日怒られていた。ある日、自分がいつのまにか目を合わせて話せるようになったことに気づく。思い返してみて、怒ってくれた先生に対してありがたいと思った。

 何週間、何ヶ月経ってまた思い返す。そしてふと新たな考えが浮かぶ。私が目上の人と目を合わせられなくなったのは先生に日々恐怖を感じていたからで、目が合わせられるようになったのは中学に入ってその怖い先生がいなくなったからではないのか。私はそのとき、その先生を恨んでいたのではなかったか?多分、恨んでいた。ちなみに今でも私は人の目線を避けるために顔を手で隠す癖がある。明らかに先生に対する恐怖心の後遺症である。

 漠然と昔を思い返して感じるありがたみだとか申し訳なさとかいうものほど信用できないものはない。私の記憶の中で1番楽しかった頃は中2の時だが、きっと中2のときの私はそんなことは思っていない。美化された記憶の中の私は友達と仲良くやっていけていたし、勉強も本気で取り組んでぐんぐん成績を伸ばしていた。けれど現実はそんなに甘くはなかったはずだ。私は確かに何かに悩んでいたはずだし、うまくいかないことだらけだっただろう。それに気づかずに昔に戻りたいだとかいって今を大切に生きられないのは、非常にもったいないことである。自由な生活とは、手に入れることを願うものではなく、今、行動を起こして叶えるものだ。

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