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無名戦士に捧ぐ

 ラートは戦友の手を握りしめた。
「死にたくない」と泣き叫んでいた友の手が、少しずつ解かれていく。
 その震える手を握りしめ、何かを繋ぎとめようとするかのように力を入れた。
「大丈夫だ、大丈夫。お前は助かる。な、俺を見ろ、俺を」
 言いながら歯を食いしばる。
 嘘の大嘘っぱちだ。心の中で叫ぶ。
 助かるはずがない。鉄錆に似た血の臭いが鼻孔に溢れている。爆撃を直に受けて腸が飛び出た友の痙攣する体を尻込みしながら空いた手で押さえつける。
 友の絶望に満ちた目が語っている。
 帰りたかった、家に帰りたかったと。
 家族に会いたかった、と。
 ママに会いたかった、と。
 だからラートは嘘をつく。
「な、帰ろう。お前を連れて帰るから。だから頑張れ」
 友は山頂で息を継ぐようにして大きく息を吸い込んだ。
 友から何かが消え去る。
 亡骸という物体となる。
 ラートは、こうした変化に見慣れてしまったことを意識する。
 彼が所属する小隊は小さな街に偵察に向かっていた。閑散とした街に入るや否や敵と遭遇。銃撃戦の末、生き残ったのはラートと友だけだった。
 ラートは亡骸の手を取ったまま、その場に顔をうずめる。
 つかの間だけでも良い。休息したかった。

 朝からずっと働きづめだった。
 街に入ってすぐ、待ち伏せしていた敵の攻撃を前に戦友たちがバタバタと倒れていく。たちまち、あたりにうめき声が満ちる。
 動揺して、その場に固まった。
 そこを小隊長に小突かれる。
「ラード、しっかりしろ。動け動け! 動かない奴は死ぬぞ」
 発破をかけられ、背を低くして訓練どおりに物陰に隠れる。
 ラードには一つの才能があった。
 耳がいいのだ。実家の羊の放牧場で手伝いをするときはそれが役に立った。はぐれた羊の鳴き声に気づいて柵の中へ連れ戻す。そのたびに両親からすこぶる褒められた。
 それが戦場でも役に立っている。発砲の残渣音で、敵の射撃位置を正確に割り出すことができるのだ。
 ラードはその才能を発揮して次々と敵を狙撃していった。
 仲間を何度も助けた。危ういところを助けて、仲間とともにほっとする――次の瞬間、ヘルメットを脱いだ友の頭に銃弾が貫いたこともある。
 どんなに犠牲を払っても戦闘は止まない。神に祈っても戦闘は続いた。
 小隊長が手を振って、次の合図を送る。ラードは小隊長の駒として能力を存分に発揮した。

 敵方の銃撃が止むようになってきた。
 戦場の方程式だ。勝利は間近い。
 ラードは小隊長に駆け寄る。
「小隊長、敵は弱くなっていますね」
「ああ……」
 意気込んで話しかけた割には小隊長の反応はイマイチだ。
「切り抜けられそうですね」
 念を押すように言ってから相手を覗き込む。
 小隊長の顔に余裕はない。むしろ悲壮感しかない。
「なあ、ラード」小隊長は銃に弾を装填しながら続ける。「おまえの戦果は素晴らしい。勲章ものだ。生きて帰れたら必ず報告する。おまえは英雄だ」
 そう言って彼の肩を叩く。
 意外な言葉にラードは恐縮する。考えてもいなかったことだ。ただ粛々と任務をこなしただけなのに。
「あ、ありがとうございます」おずおずと会釈する。
「だがな」小隊長の語調は硬い。「それは俺もお前も、生きてここからでることができたら、の話だ」
 ラードははっとして顔を上げる。
 もはや小隊長の言葉は聞こえていなかった。
 遠くで怪物の唸り声が聞こえてきたからだ。
 そいつをラードはよく知っている。
 恐ろしい怪物だ。
「れ、レオパルドですね」
 うん。小隊長は満足気に頷く。
 ラードは今回の偵察の本当の意図を悟った。つまり隠されていた戦車を誘い出すために我々が囮となったことを。
 レオパルドの破壊力を良く知る彼は静かに息を吐いた。あれが放つ砲弾を喰らったら、間違いなく本隊は全滅するだろう。迷彩色で存在を背景に溶け込ませ、獲物を虎視眈々と狙っていたのだ。
「任務完了だ」小隊長は呟くように言う。それから、
「ラード」
 名を呼ばれて指揮官を仰ぐ。
 小隊長は前方を見据えたまま語りかける。
「とにかく生き残れ。生き残らなければ、お前は英雄としてではなく、戦死者の一人として葬られるだけだ」いきおい肩を掴まれ、相手の強い目線に絡めとられる。「わかったな」

 ラードは回想を断ち切って、戦友の亡骸の脇に蹲り、背後から忍び寄る足音を聞いている。
 耳が良いことは、いい事ばかりではない。死が確実に迫っていることを知らしめもする。
 ため息をつきながら自分の銃を手元に引き寄せる。
 もう弾はない。
 戦死者の一人として葬られることになるのだろう。
 頭上で何者かが、知らない言語で喚いている。
 カチャっと引き金の音がする。
 ぼくも家に帰りたかったよ。牧場の羊も心配だ。
 ドスンと強い衝撃を体全体に受ける。
 不思議と苦しくはない。感覚がマヒしている。
 遠のく意識の向こうで小隊長が言っている。
『生き残らなければ、お前は英雄としてではなく、戦死者の一人として葬られるだけだ』
 いや、それでいい。
 俺は英雄なんかじゃない。
 羊飼いの息子だ。
 英雄なんかじゃない。


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