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ウォーホールの絵なんて分からないけれど、僕もつまらないものが好きだ

執筆:早雲

人生の節目、博士号取得の回顧録にかえて。

I like boring things.

ユニクロのTシャツやトレーナーにはよく世界的に有名な芸術家の作品がデザインされている。

うなるほどの資産も、芸術に対する造詣も全くないので、芸術的活動なるものとの接点は大体、ユニクロのTシャツのような大衆向けの商業製品を介したものとなる。僕は大学生の頃、アンディ・ウォーホールの赤い缶が描かれたTシャツを着ていたのを思い出す。手ごろな価格で、世界最高峰の作品が描かれた服を着られるなんて、贅沢だ。数億単位で取引される芸術作品が二千円のTシャツに描かれているというギャップは、なんだか奇妙だとは思うけれど。

ある日、御徒町にあるユニクロの大型店舗にいくと、ハンガーにつるされている白いトレーナーに目がいった。そのトレーナーには、こう書いてあった。

I like boring things.

そのトレーナーに書いてあったのは、アンディ・ウォーホールの言葉だった。

「僕はつまらないものが好きだ」

倒錯したようなステイトメント。ただ人の気を引きたいための逆説。安っぽい独創性を誇示しようとしていると揶揄されそうな言葉。きっと、ウォーホールの言葉でなければ、見向きもされないようなありふれたコピー。

普段の僕ならそう思っただろう。あまり自分の独自性みたいなものをアピールしようとする言葉は好きじゃない。もちろん、ウォーホールという偉大な芸術家がこの発言をしたことに価値があるというのは分かっている。だけれど、それは彼の作品や人生という文脈を踏まえなければ、そのメッセージを受け取ることには成功しないだろう。そして僕はウォーホールとはユニクロのTシャツだけの付き合いなので、彼が持つ文脈など知らない。だから、彼の偉大なメッセージを僕が正しく受け取れるわけがなかった。

それでも、僕は違うことを思った。

「僕もつまらないものが好きだよ」

屋外では夏の日差しがまだ残っているけれど、どこか冷えた風が吹いている。どっちつかずの季節を差しおいて、店舗の中は快適な温度が保たれている。周りには、休日の買い物客がいっぱいだった。

日常があふれている空間で、数秒だけ自分が切り離された気がした。

霧が濃い、ぬかるんだ道

その日は僕が博士号の学位審査が合格した、という知らせを受けた数日後のことだった。

僕の専門は微生物学だ。修士では海洋微生物を分子生物学的手法で研究していた。修士卒業後から博士入学までの三年間は食品会社の会社員として食品微生物の研究をしていたが、会社に嫌気が差して職を辞した。その後の博士では食品微生物をバイオインフォマティクスで研究していた。場所や所属や手法は違えど、研究キャリアのどこをとっても、微生物から離れたことはない。自覚はないが、執念深い性格なのかもしれない。

多分、博士号の学位取得は霧の濃い、ぬかるんだ道を歩くようなものだ。皆が皆そうではないだろうが、学位を取得した人たちの中には共感してくれる方もいると思う。その原因は経済面や研究自体の先行きの不透明さや、それに起因する不安だったりする。

そんな中で研究や勉強を進めていくと、最初に持っていた知的好奇心が徐々に削られていくような感覚を覚える。僕の研究のキャリアは学生、社会人で通算すると十年程度になるけれど、研究を始めたての時のように、素直に研究が好きだ、ということが言えなくなった。会社員としての研究業務のつらさ。経済や将来の不安に押しつぶされそうになる博士課程の研究。屈託なく好きだというには、経験を積みすぎたのかもしれない。

僕の周りは、つまらないものであふれていた

じゃあ最初から知的好奇心があったのだろうか。もし、僕が高校生の頃、学問が好きか?と聞かれると、その答えはNoだろう。

僕は、そもそも勉強嫌いだった。大学、企業での研究を経て今では博士号を取得した僕だが、小学校の夏休みには、宿題の自由研究すらさぼった。とにかくモチベーションがなかった。高校生の時なんて、三百人くらいの同学年の中で二百九十番目の成績だった。よく大学に行けたもんだと今でも思っている。

僕の育った場所は田舎で、ひたすら田んぼが広がってる所だった。自然豊かな環境で、僕は自然に興味がなかった。遊ぶ場所だって多くない。そんなにお金持ちじゃなかったから、ゲームやおもちゃだって買ってもらえない。それなら自然や生き物に興味を示してもいいようなものだけれど、僕にはそれが面白いとは思えなかった。

なぜ、そんなに何にも興味がなかったのだろうか。多分、僕は当時こんなことを考えていたのだ。勉強したからといってそれが何になるというのか。例えば自然科学を勉強したとして、それは、ただ誰かの知識をなぞるだけだ。たとえ僕が知らないことでも、人類の誰かは知っている。

自宅のリビングには父親が購入した地球儀が置いてあった。なんの目的で地球儀を買ったのかは知らない。その地球儀を見ていて、ふと思った。

地球儀には隙間がない。球体のどこを見ても、色が塗られて、文字が入っている。人類未踏の地なんて、どこにもありはしない。人間の能力でわかること、行けるところは、既に誰かが暴いている。

もちろん、宇宙にも、あるいは、地球の地下や深海にだって、人間が行ったことがない場所は沢山ある。だけれど、僕はそんなことに思いを馳せようともしなかった。そんなことに興味もなかった。

僕の周りは、つまらないことであふれていた。

隙間のない地球儀が壊れた気がした

そんなこんなで、僕は大学生になった。

勉強嫌いだったけれど、受験のときは勉強をせざるをえなかった。なぜなら、国公立大に進学できなければ、高校生卒業時点で就職しろと両親に言われたからだ。両親の収入では僕を私立の大学に行かせることはほぼ不可能だった。浪人のために塾に行くお金だってない。つまり、どこかしらの(私立に比べて学費が低い)国公立大学に入らなければ、高校卒業時点で就職しなければならない。それは嫌だった。まだ学生のままでいたかった。だから、僕は高校三年生の春頃から必死で勉強し始めた。そして、なんとか僕は地元の国立大学に滑り込むことに成功した。

そんな経緯で入った大学だけれど、高校の時よりは真面目に勉強していたと思う。卒業には不要な授業や実習を積極的に取っていき、ある程度いい成績を修めた。

その原因は僕の父親との約束である。大学に入っても勉強に積極性がない僕を見かねたのか、父親はこう切り出した。もし、一定以上の成績を上げたら、一人暮らしをするための家賃の支援をしてもよい、と。実家から大学に通うのに少々うんざりしていたから、僕はその案に乗った。

つまり、一人暮らしの大学生活というニンジンを目の前にぶら下げられたから勉強した、ということだ。結果的に、僕はそれなりに勉強をし、提示された基準以上の成績を上げることに成功した。

(ちなみに父親の約束はごく当たり前のように破られた。先ほども言った通り、僕の実家は貧乏だ。だからわざわざ、実家から大学に通える息子の一人暮らしを支援する余裕はなかった。当時も今も恨みはしないが、約束はある程度誠実に守れる大人になりたいと思った)

とにかく、その時は必修に加えて、成績を上げるのが簡単そうな授業を沢山取ろうと思っていたのだ。そして、微生物の授業を取った。別にその授業は特別すごかったわけじゃない。ごくごく普通の、体系的な基礎部分の微生物学の講義だった。

だけれど、その微生物の講義は何故か心に残った。身の回りのつまらないことの中に、知らないことが沢山あることを知った。なんだったら、人類のだれも知らないことが沢山あることを知った。例えば、人類が地球上に存在する微生物の一体どのくらいを知っているのだろうか?「知っている」の捉え方にもよるが、既知の微生物は全体の1%以下である(※1)。少なくとも99%の微生物は培養ができないので、その性質を直接は知ることができないのだ(ただし、ゲノムベースの解析手法や分子生態学的なアプローチの発展で、間接的なデータは蓄積している)。

これには結構しびれた。そして、僕はあの地球儀を思い出した。隙間のない地球儀。球体のどこを見ても、色が塗られて脚注が入っている。人類未踏の地なんて、どこにもありはしない。人間の能力でわかること、行けるところは、既に誰かが暴いている。

その隙間のない地球儀が壊れた気がした。

つまらないものが、好きになった

僕は学部四年で微生物学の研究室への配属を選び、そのまま修士課程に進学した。理系の学生の例にもれず、というのもある。だけれど、壊れた地球儀の後になにがあるのかが気になった。

僕には今まで、つまらないと思っていたものに期待する気持ちがあった。

微生物の勉強をすると未知がそこにはあった。お酒などの発酵食品、食中毒、赤潮。これら全てには微生物の働きが関わっている。こんなことは多くの人が知ってる。そこからさらに深く掘っても、まだ人類の叡智を抜けることはできない。だけれど、沢山勉強を続けると僕が知らないだけでなく、人類の誰も知らないことに行き当たる。それがたまらなく好きだった。

僕は自分の修士研究のテーマを先生たちに提案し、そのテーマで研究を進めることになった。研究テーマは「なぜ、赤潮プランクトンに曝された魚は死ぬのに、貝は死なないのか?」。このテーマで示された疑問の答えは消化管内の細菌叢の違いにある、と僕は考えて研究を進めた。今思い返すと笑ってしまいそうなくらいニッチなテーマだけれど、僕は真剣に取り組んだ。

多分、と僕は思う。多分、高校生の頃の僕がこの修士研究のテーマを見たら、つまらない、と言ったきり見向きもしないのだろう(笑いすらしないと思う)。だけれど、修士課程の頃の僕はこの研究を夢中でやった。

そして、僕はこの研究結果を原著論文として学会誌に発表した。この世のつまらないもの達の中には、人類の誰も知らないことがあって、僕がその一番最初の、ある意味での発見者になった。人類の未知を埋める貢献をした。この世界は僕が見ている表面だけでは説明できないことが沢山ある。簡単にその姿を表してはくれないけれど、沢山勉強した時に、ようやく見えてくる。

僕はつまらないものが、好きになった。

会社員時代

そのまま博士課程に進学することも考えたけれど、就職しなければ学費や生活費が厳しくなる。そう思って、ある食品企業に勤めることになった。そこで会社の研究部門への配属を希望した。

会社員時代の話は、あまりいい思い出じゃない。

まず第一に、研究所ではなく、工場に配属になった。僕にとってはこれは辛い経験となった。何をするかといえば、ダンボールを積んだり、食品をパックに入れたり、一作業者としての役割を求められた。会社の意図としては経験を積ませる意図があったとは思う。研修期間が終わっても、配属はそのまま工場勤務だった。

だけど、僕は研究がしたかった。人事や上司にそう訴えたが、すぐに訴えが反映されることはなかった。日々の仕事は学問から遠いことばかりで、鬱々と過ごすことになった。

一年ほど経っただろうか?多くのゴタゴタがあり、最終的に研究所に配属されることになった。理由は沢山あるだろうけれど、一言で言えば、僕の出身研究室のOBが会社のお偉いさんだった、ということが一番大きな要因だろうか。複雑に絡んだ会社力学的ベクトルの結果、忖度が発生したみたいだ。

「みたいだ」と他人事のように言っているのは、本当に当時の事情を僕は知らなかったからだ。僕はその時、研究所への転勤は不可能だと考えて、自分の興味にあう大学の博士課程を探し、実際にいくつかの研究室へ訪問した。仕事はニ年目にはやめようと思っていた。

だから、研究所への転勤が決まったとき、僕はとても嬉しかった。

しかしながら、理想と現実は大いに異なる。というか、現実を正しく想定できるほど情報をきちんと取れていなかった、というところだろう。僕がいた会社の研究所は自由がなかった。会社のほとんど全ての研究テーマは利益を出すためのものだ。とはいえ、利益追求が命題の株式会社なのだから、そんなことは流石にわかっている。それを不満に思うほどには子供ではなかった。

では、何が嫌だったのか?有り体に言えば人間関係だろう。閉じた空間に、閉じた価値観。口では知的好奇心なんて言っている人でも、本当にそんな価値基準を持っているようには見えなかった。そんな中で働くのは苦しかった。これ以上詳しく語ってもあまり益がないので、やめておく。今では単に僕が彼らに馴染めなかった、あるいは、僕に適した場所ではなかった、と結論づけている。

僕が好きになった、つまらないもの、がここにあるように見えなかった。人間関係も我慢できなくなっていた。

学業に専念すると言えば聞こえはいいけれど、敗北以外の何物でもなかった

僕は博士課程に行くことにした。工場に勤務していた時の計画を再起動した。そうして選んだのが、僕の博士課程に在籍していた研究室だ。

博士課程に入る時、会社を辞めようと思っていた。だけれど、多少の貯金はあるとはいえ、経済面で不安があった。研究室の先生と話し合い、会社にそのまま属しつつ博士課程の学生をやることになった。会社から給料を貰いつつ、学生として研究する。その形は確かにある種理想的なものだった。

会社とも話し合いを持ち、なんと入学金と学費を会社が持ってくれるという事になった。それを決定してくれた役員の方には今でも感謝の気持ちがある。挑戦を応援してくれている、と感じられて嬉しかった。

当然ながら、会社の業務と研究の両方をこなさなければならないので、タスクは単純計算で倍になる。いばらの道だというのはすぐにわかる。だけれど、その時の僕は自分なら多少の困難でも乗り越えられると考えていた。

しかし、結果的にはそれはよくない判断だった。

入学以来、業務の進行と博士号を取らなければという両方のプレッシャーが自分の中にあった。当然のことながら、博士進学は自分で始めた事なので、引き返せない。

さらに入学金や学費を会社が負担してくれるという事も結果的にそのプレッシャーを強めてしまった。人間関係が悪かったことも、不安を押し上げた。もし僕が何か失敗をしたとして、助けてくれる人はいないような気がしていたのだ。

やはり今にして思えば、皆が皆、僕を疎んでいたわけではないだろうと思う。少なからず助けてくれる人だっていた。だけれど、その時の僕にはそうやって周りをゆっくり見られる程の余裕がなかった。

結局、半年後、会社を辞めることにした。ゴールデンウィークの連休があけた頃だった。

僕は心療内科にいき、診断書をだしてもらった。追い詰められている事に、中々気が付かなかったが、やはり精神がまいっていたのだなと思った。

会社に勤めたことも、博士進学をしたことも、そしてそれらを両立しようとしたことも、自分で始めたことであり、この状況はすべて自分に起因している。だから、自分に同情するのは間違っている。そう思ったけれど、だからこそ逃げ場が無いように感じていた。

会社を辞めることを決意する直前、僕は今の妻と結婚した。結果的にものすごく迷惑をかけるタイミングで結婚してしまって、申し訳なかったと思う。その時想定していた今後の二人の生活の予定は狂ってしまった。

この時の僕は本当に判断ミスばっかりだ。

僕は会社を辞め、失意の中にいた。そんな中でも妻は僕の状態を気遣い、元気を出させる為に気遣ってくれた。手元のiPhoneを見返すと、その時期の写真フォルダには、意外にも色々な観光地で2人で写っている写真が多くある(なぜかは分からないが、妻がたこのぬいぐるみを真面目な顔で掲げてとった写真がある。どこで撮った?)。妻には感謝しかない。

結局この時、会社は辞め、博士課程には残ることになった。元々その予定だったのが、ちょっと遅くなっただけ、とも言える。友達や知り合いにこの話をした時は大抵、「学業に専念することにしたんだね」と良い方向にとらえてくれた。その気持ちはありがたかった。

けれど、自分の認識は変えられなかった。

学業に専念すると言えば聞こえはいいけれど、これは自分への敗北以外の何物でもなかった。

つまらないものは、もとのつまらないものになった

会社を辞めた僕は、大学の近くの寮に引っ越すことになった。結婚して期間も空いていないのに、妻とは別居する形になった。重ね重ね申し訳ないと思う。

貯金はしていたけれど、新しい生活のための引越しやらでどんどん口座の数字は減っていった。そのため妻が生活費の援助を申し出てくれた。だが、ただでさえ迷惑をかけている妻に、生活費を持ってくれ、などとは言えなかった。結局、奨学金を借りることにした。利子が無いとはいえ、返還の際の経済的不安が大きかった。

僕が進学したのは慣れないバイオインフォマティクスの研究室だった。僕が博士課程に入学した2018年は、実験生物学者であろうとコンピュータでのデータ解析技術が不可欠になりつつある、と広く認識されてきた時期だった。例えば、次世代シーケンサというDNAの塩基配列を読む機械があるが、そこから出てくるデータの量は膨大で、これまでエクセルでデータを解釈していた研究者ではデータを扱えなくなってきた。それに全体的な潮流として、生物のゲノム配列や代謝物のデータがどんどん蓄積されていき、データベースから新しい知見が生まれることもある時代になってきたのだ。

そういった理由で進学したバイオインフォマティクスの研究室だったが、僕は修士で得た研究への自信がどんどん崩れていくのを感じた。

当然だとは思う。自分で選択した会社業務と博士研究の両立の失敗、妻に大変な迷惑をかけていること、経済的な不安。そんな中で、新しいことを学んでいく精神的余裕など、全くなかった。

とにかく、博士課程を修了するために、早いところ論文を出さなければ。

僕は自分の博士研究以外の研究に興味が持てなくなった。いや、なんだったら自分の研究にも興味が持てなくなった。

昔好きになった、つまらないもの。

今考えると、いくつもより良い道を行くための分岐点があったように思えた。

つまらないものは、もとのつまらないものになった。

やり切らねばならなかった

博士研究は困難を極めたけれど、なんとしてでも論文を出さなければならなかった。

今までを思い出して、何度も失敗してたまるか、と思った。

それでも、僕は自分の精神衛生上の健康を損なわないように努めた。そうしなければ、最悪、死ぬことすらもあるからだ。毎日進捗を記録して、できるだけ健康に気を使い、人と会うようにした。僕は信頼できそうな本(論文を適正に引用している本)を選んで、心理学的な健康の保ち方の情報を漁った。精神の衛生状態を保つのは非常に重要なスキルだった。僕は研究の合間に運動のクラブに参加したり、妻や旧友に会いに行ったり、日記をつけたりした。

先ほど、最悪死ぬことすらもある、と述べた。比喩ではない。実際、博士課程の学生の中には、自らの命を断つという悲しい選択をする人もいる。

そして僕と同じ時期に博士課程に入学した学生も、そのような選択をした一人だった。

ある日、別の研究室の学生とばったり会った。研究所内の敷地で、もう夜も更けてきていて、月明かり一つない。

軽く挨拶をすると、彼女は「あの、聞きましたか?」と尋ねてきた。

なんのことか、と聞くと、彼女は泣き出してしまった。普段の彼女はしっかりした、明るい人という印象を持っていたから、このことに驚いてしまった。ただならないことが起こっていることだけは分かった。話を聞くと、信じられない言葉が耳に入ってきた。

同期の学生が、自殺をしたという事。

その彼は、僕も知っている人だった。僕も歳は違うが、同時期の入学だし、何度も顔を合わせ、言葉を交わしていたからだ。彼は学生寮の自室で事切れていたらしい。その学生寮は僕もその彼女も住んでいた寮だった。その時話をしていた場所からは目と鼻の先だ。

少なからず僕はショックを受けた。僕は泣いているその彼女に何か悲しみを和らげるようなことを言わなければ、と思ったが、うまく言葉が浮かばなかった。ただ僕は、大丈夫か、と声をかけるだけだった。

自殺をしてしまった彼のことを思い出す。背が高く、目鼻立ちがくっきりして、快活な好青年だった。いつも僕が会った時は溌剌とした話し方をしていた。その時期の僕はいつも疲れていたけれど、そんな僕でも彼と話していると少し元気が出た。

あの明るい彼にも、自分の命を絶つほどの深刻な悩みがあったのか。

彼が亡くなってしまったことを知っても、涙一つ出てこなかった。僕は冷たい人間だ。そう思った。

それでも、彼が悲しい決意をする前に、僕にできたことがあったのではないか、そう思った。飯に誘うことだって、世間話をすることだって、何かしら僕に出来ることがあったのではないだろうか。何に悩んでいるのか聞くことだった出来たのではないか。

僕だって、前の職場で精神の均衡が危うくなった。そこから何とか立ち上がるための経験談や知識を共有できたのではないだろうか。

そう思うとやり切れない気持ちになった。

だけれど、実際には僕は彼の悩みの原因すら知らなかった。

僕にはその時余裕はなかった。なんとしてでも、博士研究をやり切らなければならなかった。

何度も自分で決めたことを、失敗してたまるか。

僕は前を向く。それと同時に、もう一つつぶやいた。

僕は、冷たい人間だ。

博士号取得の要件を満たして、再び会社員に

それから僕は博士研究を進めていった。原著論文の理論をまとめるのには大いに手間取った。だけれど、沢山の論文を読み、なんとかロジックに正確性と整合性を持たせることができた。

ちなみに、論文一報書くのに、百報の論文を読む必要がある、と言われている。まったくもってそれは正しいと感じた。直接引用する文献ですら三十〜四十程度ある。研究を進めるためには引用する以外の論文も大量に読む必要がある。そもそも、原著論文は必ず新規の知見でないと行けないので、既存の関連文献全て読み、自分の成果が既知でないことを確認する必要がある(原理的には)。なので、自分が出そうとしている論文と似たものが出てる時は、大いに慌てることになる。

ともかく、僕は何とか、学位取得の要件である、国際学会誌への論文投稿を完了した。学位取得のためには、その原著論文を元にした博士論文を書き、審査委員会による口頭審問を受ける必要がある。学位審査のスケジュールは半年に一回なので、僕が適正な期間(三年間)で学位を取得することは出来ない状況だった(原著論文投稿段階で既に三年経っていた)。

そうなると、在学期間を延長せざるを得なくなってくる。だけれど、すでに社会人時代の貯金は底をついていた。奨学金の期間を延長することは憚られた。いずれは返還しなければならないお金だ。

そのようなわけで、再び就職せざるを得なくなった。

学位取得の要件を満たしていたので、一度満期退学をし、その後学位審査を受けることになった。

そのため、就職活動のときは、学位審査のことを入社前に事前に話し、その期間会社を休むことがある旨を伝えた。そこで問題ない、と言ってくれた会社に就職することにした。

今もその会社にいるが、その懐の広さには感謝している。

僕もつまらないものが好きだよ

そうして、最近、ようやく博士号の学位取得をするに至った。

学位審査や大学に提出する博士論文の作成はやはり大変だった。特に仕事と並行して行うのは精神衛生的に良くない。土日は出来るだけ休みたかったが、あまり心が休まらなかった。そんな生活が満期退学のあと半年くらい続いた。

とはいえ、今回は会社の理解を得られているし、社内でも応援してくれる人も多かった。本当にありがたいことだ。

学位授与式の当日。大学の講堂の、指定された席に座った。学長が学位記の内容を読み上げていく。少々緊張しながら、学位記を受け取った。僕は理学博士になった。

学位をとっても、達成感があったわけではなかった。土日にゆっくり出来るようになった、くらいの変化だ。あんなに必死だったのに、取ってみると呆気ない。

これから、どうすればいいのだろう。

そんな、高校を卒業したての時のようなことを思った。

つまらないものが、好きになって、研究者を目指した。

だけれど、それは並大抵のことではなかった。

好きなことを仕事にするだとか、好きなことで生きていくだとか、そんなありふれた言葉は、日常の煩雑さに流されていく。

そうやって生きるのは簡単なことじゃない。

人は、パンのために生きてはいけないそうだ。

ずいぶん、立派なことじゃないか。

でも、それで苦しんで死んでしまう人だっているんだぜ?

つまらないものは、もとのつまらないものになった。

学位を取っていいこともあった。今まで土日も心休まらない日が続いたが、おかげで時間ができたのだ。なんとなく、昔から好きだった上野御徒町周辺を散歩する。

アメ横を抜けて、御徒町の方へ歩く。御徒町には大きなユニクロの店舗がある。何の気なしに僕は店の中に入った。

ハンガーにつるされている白いトレーナーに目がいった。そのトレーナーには、こう書いてあった。

I like boring things.

そのトレーナーに書いてあったのは、アンディ・ウォーホールの言葉だった。

「僕はつまらないものが好きだ」

その言葉を見て、僕の頭の中にさまざまな感情が巡っていく。

知っていたさ。

つまらないものは、美しいんだって。

うんと勉強すれば、この世界はその美しい姿を見せてくれる。

でも、日々の生活の中で、そんなに美しいものは、いともたやすくその姿を隠してしまう。

挫折も後悔も沢山ある。

僕はつまらないものを、この手からいくつ取りこぼしたことだろう。

理想だけでは生きてはいけない。

現実は不安だらけだ。

日々生きていくだけで、どれだけ大変なことか。

少し歳をとって、僕もそんなことは分かってきたんだ。

つまらないものは、もとのつまらないものになった。

それでも、僕は違うことを思った。

「僕もつまらないものが好きだよ」


謝辞

全体的暗いトーンの記事になってしまったけれど、僕の周りには助けてくれる人や一緒に笑ってくれる人が沢山いた。僕は家族や友達とバスケをしたりお酒を飲んだりして、心休まる時間を過ごすことができた。

また、研究面でも、先生や先輩、同期、後輩の皆さんには大いに助けられた。彼らがいなければ僕は博士号取得まで辿り着くことは出来なかっただろう。

さらに、学位審査に時間を取られると分かりつつ、僕を採用してくれた今の会社の懐の広さはとてもありがたかった。

皆さんには本当に感謝したい。

また、同期の学生だった彼には、心からご冥福をお祈りしたい。どうか、今は心安らかにしていることを願う。

最後に、ずっと僕の味方でいてくれた妻に感謝したい。本当にありがとう。

参考文献


※1. 青井議輝.2016.培養できない微生物とは?どうしたら培養できるのか?―培養手法の革新―
https://www.jseb.jp/wordpress/wp-content/uploads/16-01-59.pdf

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