見出し画像

プラトン「饗宴」を読んで、考えて、語り合って

 ソクラテスといえば知らぬ人がいないほどの哲学者です。しかし、自身では一冊の本も書かなかったということでも有名です。

 最初何も知らずにプラトンを読んだときに「え、ソクラテスのことばっかり書いてある!!」と驚きました。そう、ソクラテスの姿や考えをいきいきと伝えているのはプラトンなんです。

 もちろん、そこには書き手プラトンの思いが色濃くソクラテスの姿にあらわれているということを忘れてはいけませんが、まるでソクラテスがそこに歩いていて語りかけてきてくれているかのように感じられる描写力に、つい書き手を忘れるほどに引き込まれます。

 『饗宴』にもソクラテスが登場します。その登場シーンはかなり印象的!

 ソクラテスの弟子アリストデモスがソクラテスに道で出会い、アガトンの家での集まりに一緒に行こうと誘います。しかし、アガトンの家についてみるとソクラテスの姿は見えず、ソクラテスを連れてきてくれればよかったのにと言われてしまう始末。

 探してみると、ソクラテスは隣家の玄関先に立っていました。よくそうするので邪魔をしないでおこうとアリストデモスはみんなに言い、ソクラテスが一人でいる時間を守ります。ソクラテスは思索を第一にしていて、常識にとらわれることはなかったんだろうなあ、そしてそれを周囲の人はあたたかく見守っていたんだろうなあ、、ということが伝わってきます。

 ソクラテスが集まりに加わってから、みんなで「エロス」について話をするという「饗宴」らしい展開に。日本語で「エロス」と聞くと、ちょっとびっくりします。光文社文庫で読んだ限りでは「エロス」というのは、まず第一には神話の中に存在する女神(定義は話し手によってまちまち)であり、その神性がどういうものであるのかというのを語っているように思えました。原典のギリシャ語では語感は違うのかもしれません。

 まずはソクラテス以外の参加者がエロスについてどういう風にとらえているかを語り、それぞれにその美点を述べていきます。人間は昔4本の足と4本の手があったが、神によって切り離されて現在の姿になり、それぞれ自分の半身を探しているというアリストパネスなど、それぞれに面白い説を展開します。

 そしていよいよソクラテスの話が始まります。ソクラテスはまずアガトンがエロスについて思っていることの矛盾点を問答の中で明らかにし、自分の話を始めるのですが、これはディオティマという名の女性から聞いたのだと説明します。自分もディオティマと問答をして、ディオティマが語ってくれたことを紹介するというかたちをとるのです。

 人々は自分の半身を探し求めているという先ほど披露された説について、ソクラテスは、ディオティマが単に人々の半身を追い求めるのではなく、それがよいものでなければ愛の対象にはならないと言ったと語ります。

 確かにいくら自分の半身でも、自分の醜い点が目につくような半身だったら追い求めないかもしれません。そこに何らかのよいものを感じたら、追い求めたくもなります。それをソクラテス自身の考えとしていったらその場の雰囲気がおかしくなったかもしれないですが、ディオティマの考えとして語られるときっとその場の人も素直に聞けたことでしょう。私たち読者の心にもすっと入ってくるように感じます。

 ディオティマは「エロスは、よいものを永遠に自分のものにすることを求めている」と、エロスの性質を定義します。そして「その働きとは、美しいものの中で、子をなすことなのだ。これは、体の場合であっても、心の場合であっても、同様にいえることだ」と子をなすことと美を結びつけて説明します。

 ディオティマが語る美の階梯もまた独特のものです。肉体を愛することから始め、魂、そしてさまざまな知識の美しさへとだんだんにあがっていきます。そしてそこでは言葉が非常に大切なものと認識されています。

 一人で読んでいたときにも、この「子をなすこと」そして、美の階梯の考え方、とくに言葉を大切にしているところにはとてもひかれました。

 しかし、一人で読んでいてどうにも腑に落ちなかったのは、『饗宴』本編の終わり方です。ディオティマが深いことを語って終わるのならわかるのですが、実際にはソクラテスが話し終わるやいなや突然酔っ払い集団がなだれこんできます。中でもアルキビアデスという若者はひどく酔っ払っていて、ソクラテスに憧れ、自分を捧げようと思ったのに受け入れられなかったという話をします。それはかなり率直な感じではありますが、なぜ最後に突然こういう人物が出てきて、場をかき乱すようなことを言って終わるのかなあと不思議でなりませんでした。 

 その時代は、ごく若い男性が成人の男性に性的に尽くし、そのかわりに知恵を授けてもらうという一種のイニシエーションのようなことが行われていたのだそうです。知恵のあるものに触れるとその知恵が自分につくという思想があるようにも描かれています。ですので、その発想や風習が腑に落ちないというよりは、プラトンがなぜ最後にこの描写を置いたのか、ということが私にとって大きな謎でした。

 カフェフィロが実施している「テツドク!」という哲学書を読み、楽しむ会で、プラトンの『饗宴』を今月とりあげると知って申し込み、この週末行ってきました。

 本の紹介者として立正大学の田坂さつきさんが丁寧に『饗宴』が描かれた時代のこと、『饗宴』の構造と内容の説明をしてくださり、また参加しているみなさんが気になることや感想を語るのを聞き、自分でも話しているうちに、唐突にしか感じられなかった若きアルキビアデスのソクラテスへのぶっちゃけ失恋トークは、もしかしたら、ただ触れただけでは知識は身につかないというプラトンなりの説得なのではないかと感じ始めました。自分を高め、自分の中で外からの刺激や経験と思索とが出会い、とけあい、自分なりの新たな生命力を持つかたちとなって自分の中に孕み、そして生むことができたなら、不死ではない人間にとって悲願でもある永遠につながるものをつくりだすことができるのではないか、と。学術的に価値のある理解ではないかもしれないけれど、私自身は『饗宴』から流れ込んでくる贈り物をとめていた堰が、急にトンと音をたてて開き、私の頭にすばらしい贈り物が流れ込んできたように感じました。

 何人かの人と読み、感想を言いながら深めていく楽しさを今回も味わうことができ、とてもうれしく思いました。自分だけで静かに本と対話するのもいいけれど、いろんな人と読むのも本当に楽しいなあとつくづく思います。

✴︎こちらの文は、ほぼ「理恵の全力尽力な毎日」からの転載となります。 http://wadarie.at.webry.info/201606/article_2.html

 

 


いただいたサポートは、心動くものを探しにいくために使わせていただきます。そのわくわくをまた記事にしていきたいです。