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「遅いインターネット」宇野常寛 幻冬舎

この本の初版は2020年の2月20日で、謝辞と付記として書かれているあとがきの日付けは2019年の12月だ。オリンピック破壊計画と書かれている序章は、コロナの感染拡大で2020年開催予定だったオリンピックが本当に破壊される前に書かれたものだったけれど、コロナで延期になる前から私自身オリンピックをやる意味が分からなかったので、ここに書かれていることはとても腑に落ちた。引継ぎ式のマリオも、新国立競技場も、そして、悪い冗談を見ているような小さなかぶる傘や霧吹きの熱中症対策も、これから始まるオリンピックをワクワクさせるものはほとんどなかった。

そしてコロナがやってきた。全世界共通のコロナ禍が来たことで、他の国と比べて、いろいろな対策がうまくいってないことが可視化された気がする。今の日本を見て、どうしてこうなっちゃったんだろうと思った。今までも少しずつ感じていたけれど、毎日生活をまわすことの方が忙しくて、ほとんど考えてこなかった。

この本ではそれを平成という失敗したプロジェクトとして説明している。政治と経済の2大プロジェクトの失敗。政治では55年体制から中道的な二大政党制へ、経済では20世紀的な工業社会から21世紀的な情報産業へという2つの改革は完全に失敗し、政治では自民党による一党支配がより盤石になり、経済においても21世紀的な情報産業は発達せず、他国に追い越されてしまったと。

では、どうしたらいいのか。

民主主義の回路を新しく作る。デモでも選挙でもTwitterなどのネットでボトムアップされるポピュリズムでもなく、人間本来のまま政治参加を促す回路。市民と大衆に分けるのではなく、職業人として専門性を活かした回路をつくる。ここでは台湾の例をあげている。またはよいメディアをつくる。

ここでよいメディアになりうるものとして遅いインターネットがあげられている。インターネットは速くなりすぎて、考えさせないための道具となってしまったと。

吉本隆明の共同幻想論からそれを受け継ぐ糸井重里、そして、21世紀の共同幻想論にいたるくだりは読んでいて面白かった。大きくなりすぎてしまった自己幻想を抑制すること。対幻想に対しても、共同幻想に対しても、適切な進入角度と距離感を常に調節し続けること。世界に対して、調和的に関係し続けること。タイムラインの潮目を読むのではなくて。

それをするために書くこと、書くためには読むことが必要だということはわかる。ただ、そこでウェブマガジンを中心に読者コミュニティをつくり、ワークショップで受信と発信のノウハウを共有するというのは、それはまた別の共同幻想を生んだり、糸井重里がつまづいた階級差や「Anywhere」と「Somewhere」がもたらす分断につながらないのかなとちょっと思った。

宇野さんは「新たな問いをうむ発信は既に存在する価値への共感の外側にある。人間は共感した時でなくむしろ想像を超えたものに触れた時に価値転倒を起こす。そして世界の見え方が変わるのだ。」というのだが、ふらっと入った本屋でふと手にした本から価値転倒を起こすことはあっても、自ら共感したいといろいろな手続きを経て入った読者コミュニティの中では共感の外側にあるものに触れるのはなかなか難しいのではないかと思う。

私がもし一緒に走るとしたら、それはそれぞれがそれぞれの場所で、自分に合った速度で走り続け、書き続ける。それがたまに交差したり、他の人の走っている姿を目にしたりして、ちょっと微笑み合う。そんなスタンスには共感できる。

そして今はいろんな方法で自分の思うことを綴ったり、読みたいと思った本を読んで思ったことを長さ、時間、評価を気にせず書くことができる。誰でも作れるようになったネットショップでは、同じ本を読みたいと思ってくれた方にその本を手渡すこともできる。本は出版社にお願いして出してもらわなくても、ZINEという方法もあるし、やりようはいくらでもあるような気がする。

「書く」と「読む」を脊髄反射的にやらない方法はいろんなところにあるし、世界に素手で触れているという実感は与えられるものではなくて、自分で勝手に感じるものだから、いくらノウハウを共有しても、それで実感できるようになるというものでもないような気がするけれど、遅いインターネットというサイトはおもしろそうなので、時々読みに行ってみようと思う。



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