数学とかアートとか(ピアノとか)
『はじめアルゴリズム』という漫画に出会った。
母になってから知り合った、この世界の新鮮さを思い出させてくれる大切な“ママ友”から教えてもらった。
1巻の前半で泣いてしまったのは、
小学1年生の頃の私に戻ったような気がしたから。
ここから世界を捉え直せると確信したから。
『君は数学にとって重要なものが何か分かるか? -情緒だよ。
美しいものを美しいと感じるこころの目。情緒とは「世界」と「自分」の間に通された道のようなものだ。情緒を通して「問い」が開く。」
(『はじめアルゴリズム』第一巻より)
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私は要領はいい方だし、根が真面目なので、
小中学生の頃は、何をやっても平均より上手くできたと思う。
小学1年生の頃、私は、さんすうが大好きだった。
色板やブロックを使って、2と8も、3と7も、4と6も、
全部同じように10になるのが面白かった。
三角形や四角形や五角形や六角形の形をどんどん組み合わせて
そこに規則性を見つけたりするのも大好きだった。
1年生の最初の算数のテストで100点を取って(もっと難しい問題を出してほしいと思った)、2年生でも3年生でもほぼ満点で、先生にもクラスのみんなにも「すごいね」と言われているうちに、いつの間にか、この世界を理解するための楽しいツールだった「さんすう」が、テストの点を取るためにただ暗記するものに変わってしまった。中学に入ってその暗記の難易度が高くなってきた頃、私は数学が苦手になった。
絵を描くことも同じだ。
最初の記憶は3歳頃。私は絵を描くことも大好きで、どこに行くにも紙とペンを持ち歩く子どもだった。女の子の絵を描くのが特に好きで、その時に思いついたものをただただ描いて、描いて、描いていた。
同じく小学校1年生の頃、馬の絵をみんなで描きに行き、馬小屋を真っピンクに塗った私の絵は、市の絵画コンクールで金賞を取った。とっても嬉しくって、もっと絵が好きになった。
高学年になっても、図画工作が好きで、授業の中で一生懸命いろんなものを作って、先生にも周りの大人にも褒められたりした。だけど、馬小屋をピンクに塗るようなことはもう無くなっていた。
中学1年生の美術の時間、自分の左手を描く授業で、それが全くうまく描けなかったことで、もう絵を描くことはほとんどしなくなってしまった。
3歳から小学校が終わるまで習っていたピアノは、音の調和やリズムの取り方の感覚が好きだった。だけど、楽譜通りに両手を動かすことが難しくて練習が嫌いになり、最後はフェードアウトするように辞めてしまった。
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あれからずーっと、私は数学もアートもピアノも、自分には関係のないものだと思い込んで、私は苦手だからと思い込んで、生きてきた。
29歳で、長女を出産するまでは。
最初に私が取り戻したのは、絵を描くこと。
娘は1歳になったくらいの頃から、子どもの頃の私と同じように絵を描くのが大好きになった。
2歳になり、キャンバスに絵を描くようになって、ただただ自分の思いつくまま、とても自由に色を選び、筆や手や、そのあたりのものでそこに絵を描く彼女と一緒にいるうちに、自然と私も絵を描いてみたくなった。
今まで無縁だと思っていたキャンバスというものを目の前にしたら、自然とそこに載せたい色が浮かんできて、自然と筆を滑らせていて、そうしたらとってもキレイな絵が完成していた。
もちろん風景や物を上手に描くことはできないけれど、そうじゃなくても描いてよかったんだ、ああ私は今でも昔のまま、絵を描くことが変わらず好きなままだったんだ、思い出して本当に良かった、とその時も泣いた。
数学は、じわりじわりと、また私の人生に戻ってきてくれている。
HAHA PROJECTの活動で、少しだけプログラミングに触れる機会があった時、その基礎の部分を教えてもらって、面白くて震えた。
数字と記号を規則に沿って並べることで、目に見える形となっていくその様にワクワクした。
そのあと、食や健康の文脈から人の身体について興味を持って、その構造についていくつかの本や文章を読んでいたとき、人間の呼吸のリズムと海の波の寄せるリズムが、どちらも等しく1分間に18回であることを知った。
鈴木エドワードさんの『神のデザイン哲学』を読んでいた時、自然の中に多く存在する黄金比や、フラードームの構造について知った。
森田真生さんの『数学する身体』を読んで、数学がとてもロマンチックなものだということに気が付いた。(これはまだ読んでいる途中)
そして今日読んだ『はじめのアルゴリズム』。
私は今日やはり、美しいものを美しいと感じたいし、その意味を、つながりを、どうしても知りたいと思って、この世界を捉え直そうと決意した。
(実は、何を学ぶかはもう目処を立てている。数字からのアプローチではなく、身体からアプローチしようと思う。ふふふ)
それでこんな夜中にこのブログを書いている。明日も朝から長女を幼稚園へ送り出さねばならないのに。あーあ(笑)
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それで、総じて何が言いたいかというと、
数学も、アートも、本当はもっともっと自由で、美しくて、楽しいものだってこと。
そのことを思い出して、本当によかった。
数学やアートは自分自身が自分の内なる世界を表現するものであって、
この世界を理解するための媒体であって、
本当は、誰かに評価されるものでも、点数をつけられるものでもない。
数学やアートは、本来、誰にでも開かれているものなのだ。
(あ、ピアノに関しても、私はおんなじプロセスを辿っているかもと思ったけれど、これはまだ取り戻してはいないなぁ。もちろん興味はあります。音楽は大好き。踊るのも大好き。またピアノやってみようかな。)
3歳になった長女は、何か分からないものを描いていた1〜2年前から比べると、近頃は形あるものを描くようになってきている。
最近は、ひらがなや数字が大好きで、自らすすんで覚えている。
色や形の違うものを色や形の似ているものにカテゴリ分けして、それを床に規則的に並べたりもしている。
毎日毎日、それはそれは自由に歌って、自由に踊っている。
私は彼女のなかの、その自由な感性を、発見に満ち溢れたこの世界を、そのままにしておいてあげられるだろうか。
数学やアートや音楽や、そういうことに、どこまでも広がる自由なものとして、世界と自分をつなぐ情緒的なものとして、自分の内なる感性と直結するものとして、触れさせてあげられるだろうか。
2人の娘たちも、集団生活を送るなかできっと、私と同じような壁にぶつかる時が来る。
その時は少なくとも、「本当にそうかな?もしかして、もっと自由でいいかもしれないよ?」と、疑問を投げかけられる存在でいたいと思う。
私自身はこの先、数学者にもアーティストにもならないだろうけれど、それでもこの自由な感性を、もう二度と忘れないようにしようと思う。
2021年7月15日、夜中の備忘録でした。
RIE