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[第5回]生まれた日。

子どもの頃はきっと待ち遠しかったのであろう、その日は今のわたしにとって嬉しいものなのか否かは分からない。23年前の今日、わたしは産声を上げた。


15歳の頃のわたしはきっと世間に言う"尖っていた"のかもしれない。それでいて、良くも悪くも人より高い経験値故にどこか達観したような、人よりも一歩後ろで物事を観ているような大人びた節があったのだろう。しかし、人並み・年齢並には"厨二病"でいて、だけど誰よりも"子ども"だったのかもしれない。とどのつまり、自分自身を、自分自身で分析する事はできないのだ。ましてや過去の話。正直、その頃と今に何か思想の相違があるのかと問われると、イマイチ実感はない。ノイズけたたましい教室の中特段新しくも旧くもない机を、わざわざ焼肉になるのではという程熱を持った光のカーテンに包まれる窓際に寄せて本を読んでいた"自分"。LEDライトが広い部屋を照らし、テレビでは好きなアイドルが歌って踊っている映像が流れ、エアコンで暑くも寒くもない温度に調整するという、文明の利器を最大限に利用して快適さを作り上げたダイニングでただ黙々とタイピングをしている"今"。思い返したところで「あー、そういえば当時はこんな事を思っていたな」なんて感じる事はない。それは、当時が大人びていたのか今が成長しない子どものままなのか。

そんな中学三年生のちょうど今日、わたしは初めて「これ以上歳を取りたくないな」と感じた。8月11日。15歳になったその日に、そう思った。

それは、単純に「老け込む事」への恐怖なのか、それとも「大人になるという事に付随してくる責任からの逃避」なのか、「将来への不安」なのか。過去の自分が何を抱いていたのかは不明だが、きっと今感じている感情の理由は、そのすべてであろう。


あれからまる8年が経った。当時抱いていた感情と、今の感情に差異はない。ただ、当時よりも「誕生日が待ち遠しい」と感じる事への嫌悪感と羞恥心が増したくらいである。何故だろうか、人は大人になるにつれ夢を叫ぶ事を恥と思うようになるし、好きなものを好きと叫ぶことを恥と思うようになる。子どもの頃は無邪気に口にできた言葉が、年を重ねる毎にできなくなる。一歩止まる。そして、飲み込む。

「誕生日」が待ち遠しいのか、来てほしくないのか、自分自身でも謎である。自らの感情が行方不明。迷子。基本的にわたしの感情は、一度でも迷路に迷い込んでしまうと二度と出口を見つけられない。一生暗闇を彷徨い続ける亡霊のようなものだ。

わたしには画面越しに見掛けるような、絢爛たるインスタ映えしそうな誕生日パーティーを相互に開くような友達はいない。遊ぶ友人が誰もいない訳ではないが、重要視して豪勢な計画を立てる事とは何故か無縁だった。せいぜい昔から祝いの(馬鹿長い)メールを送り、ささやかなプレゼントを交換し合う程度である。とはいえ、プレゼントとやらももう何年がんねん縁がない。まあここ数年、わたしの置かれていた環境下も影響しているとは思うのだが、敢えて指を折るとすれば5つ離れた妹くらいであろうか。…友達では、無いという突っ込みには耳を塞ぐ。

どれだけ「派手」と「衝撃」と「かわいさ」を兼ね揃えたパーティーを開くか、開いて貰えるかのSNSでの無意識のマウント合戦。それを鼻で笑いながらも、もしかすると、端に体育座りをしていたわたしは何処かそれに憧れていたのかもしれない。大人数での喧噪は疲れるが、それと同時にやはり楽しさも同時に手を繋いでやってくる。それを否定できる程、わたしはひねくれ切る事はできなかったのだろう。あたかも興味がないかのような顔で、日々を過ごす。前日深夜、時計の針が動くごとにソワソワするのは何も楽しみにしているからではない、そう思う。思いたい、微々たる反抗心。だがしかし、僅かに顔を見せる肯定の感情。

何も変わらない日常。何故か誕生日に限り、昔から異常なまでの病院予約率。昨年は父と妹と名古屋へ訪れた。(きっかけは妹の行きたい写真展が理由であったが…)だが今年はそうもいかない。コロナ渦に付け加え、先月の定期通院の時点で「日程変更は不可」と宣言されたうえでの診療予約。何ら変わらない日常を過ごす。時々スマートフォンが音を立てて揺れるのが、唯一の変化。おそらく友人らからのプレゼントは遅れて届く。そういえば、何がいいかと聞かれていた質問にもまだ返答していない。コスメにしようか、アクセサリーにしようか。香水もいいな、なんて。


産まれて来て良かったと思った事は、あいにく一度もない。だが、わたしは生かされている。死ぬだけの力がなかったとも言える。幾度となく訪れた、スイッチを押す瞬間。何故かいまも、物理的に押すことができないまままたひとつ歳をとる。そんな自分に対する自己嫌悪。この世で息をしている事を許せる日も、良かったと思える日もないかもしれない。目先の子ども騙しで1秒1秒遅らせることしかできないかもしれない。それでもわたしは生かされている。17歳の年の7月24日。わたしのとても大切な人の命日に、同じ年で、同じように…そう考えた事もある。その時は、何故そうしなかったのだろう。出来なかったのだろう。あまり、記憶はない。

産まれてきた事に感謝された経験はない。良かったと思われた経験はない。それは実際にないのではなく、わたしがそう捉えているというだけの話だ。そう思うように、育ってしまっただけである。もしかしたら本当にないのかもしれないし、思えないだけなのかもしれない。誰も知らない。

自分を信じられない人間は相手を信じることもできない。自分を大切にできない人間は、他人も大切にできない。その意味が最近分かった。

……嗚呼、担任に鋭い視線を向けていた頃から変わった事が見つかった。あの時はその意味が分からなかったのだから。

自信がなくて自分自身を信じられないわたしは、他者が自分に向ける「愛情」や「感謝」「好意」それらを信じる事が出来ない。自分がそれに値する人間だとは思っておらず、また、それを信じて失う瞬間を恐れているからだろう。自分を信じる事が出来ず、結果的に相手の感情を受け取り拒否しているわたしは相手を傷つけている。自虐は、他者を虐げるのだと気づく。"誰か"の悲しそうな顔を何度も見てきたはずなのに、変わらない。変えられないのだ。残念なことに。それが、わたしという事だろうか。だけど毎秒"わたし"は変わっていく。


ひょんなことから知り合った、年下の友人に尋ねられた事がある。「なんで死にたいのに死なないんすか?」

そいつは定規も驚くほどの真っ直ぐさと、子どもに並ぶ無邪気さと純粋さを持ち合わせている。不思議に思ったことはすかさず「どうして」と問う。周囲の人間には思ったことを言えずに黙り込むか、遠まわりしまくった挙句伝わらずわたしに「聞いてよ」と泣きつく癖に、わたしに対しては無駄にストレートである。クラスのガキ大将の投げるドッヂボールの球よりもすごい勢いで投げかけられる疑問と意見に少々(かなり)面食らう事はあるが、わたしはそれが清々しくて好きだ。多少失礼なことを言われても寧ろ笑いが零れてしまう。笑った先では、「なんで笑ってるんですか」と不思議そうな声が聞こえるが。

そいつに、深夜投げかけられた疑問。床に寝転んだままぼうっと天井を見つめ、…なんで、ねえ。と一人反芻してからわたしは答える。行動に起こしたこともあるが、運悪く生き残っているだけだ、と。すると驚きの答えが返ってきた。「すごいっすね」

「え?」「いやー、すごいなあと思って」「なにが?」「死にたいと思って、実際に行動に起こせるのが」「そう?」「そうっすよ」

だけどそれは他人からすると口だけの意気地なしにしか見えないだろう、と言うと「いいんじゃないすか」と間延びした声がイヤホンから耳孔に伝わる。「だってそのおかげで今、生きてるんでしょ」「そうだけどさ」「だから今話せてるんでしょ、それなら寧ろ感謝っすね。その時死んでたら出会えてなかったわけだし」「…まあねえ」「いいんじゃないすか、目先だけの子供騙しで生き延びてても。誰にも文句言う権利ないし」「そんなもん?」「そんなもんっすよ」話している内容はすごくダークで、シビアな話なのにそいつのテンションは昼下がりのハンモックのようにのんびりしていた。そのせいか、わたしもどこかふわっとした返答になる。どこか似ていて、どこか正反対なそいつと話していると何故か落ち着くのだ。そいつは、どんなに張り詰めている空気も緩ませられるし、シリアスな悩みも「まあいいか」と思わせる天才だと思う。頼られているように見えて、実のところわたしは何度も救われている。まあ、悔しいからあまり面と向かっては言ってはやらないのだが。まあ、伝えたところで「えー、そうっすか?そんなことないっすよー」とキャラメル色した夕暮れの雲のような独特のトーンで言うのだろう。白黒はっきりつけたがるわたしならイライラしてもおかしくない程誤魔化すような宙に浮いた言動が多いのに、不思議と包み込まれてしまうのは彼女の心の広さ故なのか、宙に浮いているようで要所要所できちんと着地しているからなのか。子どもなようで大人なのだろう。


いまのわたしは、いつだかに思い描いていた「23歳」とはかけ離れている。だけどそれでも、生き続けるしかないのだ。今は。気付けば遥か年上だと思っていたキャラクターの年齢を追い越し、手の届かない程大人だと思っていた当時のタレントの年齢を追い越した。年の離れた子どもだと思っていた妹やアイドルの年齢の頃の自分は鮮明に思い出せる。思った以上に人生は駆け足だ。きっとすぐに、また、憧れの人の年齢に追い付き、追い越すのだろう。その頃わたしは生きているだろうか。なにをしているだろうか。今のわたしに出来ることは、子ども騙しのアトラクションに乗り込む為に靴紐を締め直すことだけだ。行こう。過去をポケットに詰めて。


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