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『自尊心』が自らの足かせとなる。

自分の価値は学業では決められないものだ。
成績のよいものが自分の価値だと信じているものは、それが低い評価になってしまったとき、ひどく落ち込む。

わたしたちは大半が義務教育を修了させていると仮定して、その間に身についた価値観が働くことになっても持っていることがある。

それが悪いことではないけれど、足手まといになりかねない。

『どうやったらテストで良い点をとれるか』を気にしすぎて、その知識が自分の中にあるか?が分からなければ大人になったら苦労する。

良い点をとる、というのはいわば他人が設定した問いにふさわしい答えを書くようなもので、その問い自体が他人の手にある。
しかし、自分のなかでわき出た問いもじつは存在していて、それは人には知らないけれど自分で答えを見つけることができる。
悲しいけれど、それが本当の問いなのだ。

その自分で見つけた問いというのは、答えは自分で見つけるけれどもその答えに至るまでには、他人の力を借りても良いのだ。
図書館で本を借りるのも、ネットで調べるのも、答えにいたる過程のなかに『手段』としてある。
答えを見つけるという『目的』に合ったなら、それは『手段』になり得る。

けれど、『自尊心』のなかで、成績や他人の目を気にして悪かったとか、嫌われたという評価があたかも自分の価値観をも低くしているようならそれは間違いだ。

あなたが思っているほど、あなたはそんなに価値のないものなのか?
それはどうしてだ?
他人の評価が上がったり下がったりしても、あなたはあなたであり、あなた以外にはならないのだ。
その評価が上下するのは、他人があなたを査定しているにすぎなくて、あなたの能力が上下しているわけではないのだ。
そこは間違えないでほしい。

己の価値は己で決めて生きていくのだ。

わたしはやっと、自分の強みを知ることができた。
わたしは真面目で自分を強く持っている。自分を高いところにのぼらせておくのが好きで、時には変化したりあらゆるものを考えたりするだろう。

時にそれは足かせにもなるかもしれないが、自分はそこではそんな成績でしかなかっただけであり、また学んでいけばそれはいつか克服できると思っている。
他人の評価は他人が持っている判断のなかで下した評価であり、わたしは自分を自分で評価する軸を持っている。
悲しいかな、わたしに対する他人の評価が最低でも、わたしはそれで落ち込むことは少なくなった。というか、他人の評価はその人の軸としてしか機能しないのでそれで自分を引きずらせることなんか、本来できないはずなんだよね。

悪口?
ハッΣ(´□`;)
言っておけば?
その判断は最終的に、わたしをうまく使おうとしているのがバレバレなんですもの。
わたしはわたしのなかでしか、変えることができませんのよ?
自分が変わりたいと思ったときに自分のペースで変わっていく。
他人を急かすのは愚の骨頂。責任とれないのに変わらせることはまさに無責任。

そんなことをする前に、まず自分が変わったら?

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