橘しのぶ詩集「水栽培の猫」を読んで

橘しのぶ詩集『水栽培の猫』を読んで     原島里枝

黒猫の写真が控えめに、しかし存在感強く表紙に「居る」。
繊細な装丁がこの『水栽培の猫』が愛猫への深い愛情を込めていることが感じられた。

私は詩集を頂くとあとがきから読む癖がある。
今回開くと野木京子さんの栞文が入っていたので、それから拝読した。
この詩集をどのように受け止めようか、野木さんのすんなりと吸い込めるように書かれた栞を拝読して、期待を抑えつつ僅かな高揚まで感じた。そうしてあとがきを開く。
この詩集への想いを知りたいと思ったが、私の目の前にいきなり飛び込んで来たのは、猫のかわいらしい足跡と(こういった効果を入れるのは思潮社さんの詩集で見たことがなく、筆者の要望があったのかもしれないと思うくらい、猫の存在への強い意志を感じた)、そして一行目を読んだ途端、唐突に涙がわ――――っと出てきた。
詩と愛猫を大切に思って過ごした時間をこの一冊にしたのだろう、と突然ぎゅっと心臓を掴まれてしまって、涙で紙が縒れたりしないように慌ててティッシュを数枚引き出した。
少しだけ、少しだけ、この詩集を読むまでの心の準備をする。
自分がいきなり詩の本文へ入る前に泣いた理由は、あとがきの体現である詩集の詩篇から答えを得るのだろうと思ったので。
帯文の三行は表題でもあり、巻頭詩でもある『水栽培の猫』から取られている。
猫は水栽培でとうめいになり、そして飼い主のあとをついてまわっている。
抱いてねるとほかほかといのちを感じる。アパートの住人は気が付いてないようで、それぞれの水栽培の猫を飼っている。まるでその人の心の裡のたいせつな柔らかい芯を形作る記憶のようだ。とうめいなねこたちが、しあわせであることを祈らずにいられない。
橘さんの詩を強烈な印象としては捉えたことがなかった。しかしこの一冊の詩集は、橘さんの詩情と愛情や哀情が凝縮し結晶となって、ばつん! と脳へ落ちてきた。
『ごっこ』。散文詩として収録されているが、物語詩的な作品よりもう少し謎めいている。
ゆめのように美しい花束――人生を生きているとそう思うものを贈ったり、届けられたりするが、うつくしくはかなく、それでいて、どこか醒めている。ゆめのなかで醒めている。
詩篇を読み進めながら、やっぱり突然胸がぎゅっと苦しくなる。何かの欠片が詩篇たちに押し込められている。章立てされていないから、どこかで区切ろうという気持ちも起きず、ゆるゆると頁を捲った。
『犬』「コバルトブルーを飛行機雲がびりりと裂いて/疵口からあふれるものを目で追いかけ/追いつくまもなく消えてしまうから/泣きたくなる」アクリル絵の具のビビッドな色彩が目に飛び込んでくるような鮮やかな書き口で、詩篇は犬を買いに行くという行為にものすごく、淋しい気持ちから求めてしまう気持ちを感じ取ってしまった。
『ついたて』橘さんの詩篇は、決してノンフィクションではないのだろう、童話的な、不可思議なおとぎ話的な薄衣を纏っているのは分かっているのだが、ところどころにはっとする真実が描かれている。これは「ものがたり」なのに「ひとまねのきらいな」鸚鵡の真っ白い翼を想像して、この鸚鵡を通して、誰か――という、「人間の面影」すら見い出してしまう。それは筆者の誰かではなく、読み手が読み手の人生から投影させるものだが、詩のそういった寓話性と真実性がいいバランスで配合されていると感じる。
和歌からの作品も複数収録されており、作者の読書の範囲が古典和歌にも及ぶ造詣の深さを感じるが、決して古典だけにとどまらず、やはり「寓話性」を伴って自在に描かれている。『りぼん』などにそういった印象を思った。
『うそつきさん』のうっかりどぎつくなりそうな一行からまとめあげる実力と、『系譜』のような母から娘へ引き継がれていくような、合間の「娘でもなく母でもなくわたしであるわたし」の遠い記憶のなぞり方は、詩の描き方がやわらかな書き口でありつつも多彩で多層を帯びた詩篇たちであることを読み手に伝えて来る。押しつけがましくない、そう、水栽培の器に注がれた水を、吸い上げていくように。
『口笛』の「日に日に削がれて/紙切れになった猫で飛行機を折る/もしも、飛ばしたなら/二度と会えない」湿気がないのに、大切にしているいのちを、もうすぐ紙飛行機を飛ばすようにするりと腕の中から抜け出ていってしまう予感の寂寥が迫ってくる。
うつくしく、はかなくて、どこか醒めた白昼夢のような詩篇が生み出される隣で、その誕生を見てきたであろう「水栽培の猫」が、花となって咲いて散ってしまうまでの時間。
詩人の繊細ながらも傷むことのないしなやかな精神性に健やかさを感じながら、もう一度あとがきを読んだ。今度は、読み手である私も泣かなかった。猫はしあわせだったのだ。

読みながら、私は表紙カバーを外してカバー下の詩集の顔を見ながら読んだ。深い紺色に銀色の文字で、水深の深いところから、確かに猫の毛並みのような艶をまとって詩情があふれ出していた。


この記事が参加している募集

#読書感想文

189,023件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?