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はじまりとおわりが起こるところで

この数年間「学んでいる、求めている」と言っていても一体何をしていたのか…と思うほど(この期間があったからこそなのはわかっているけれど)、ずっと求め続けてきたことがこの数ヵ月で一つずつ丁寧に除外することなく繋がってきている。
人生の全てにおいての疑問が、ひとつひとつ確実に解決されていっていることに喜びとありがたさが増している。

それらは簡単に言ってしまえば、「人生の全てを一言たりとも言い訳せず丸ごと受け入れてはじめて、スタートなんだ」ということ。

僅かでも「こんなはずじゃ」「私のせいじゃない、私の責任じゃない、だって先に世界がこうだった」「もっとほかにも出来た、あったはず」という納得していない思いが出てくるなら、少しでも苦しみや悲しみが出てくるなら、それらは何も受け入れてないという証拠で、起きたことから「受けとるべきもの」「恵み」を受け取っていないことになり、なにひとつ「終わらせて」などないのだった。

起きることに「その通りです、わたしが見ているのです、わたしが望んだ、決断したのです」とはっきりと理解し認め改められないなら、そしてこれからどうしていけばいいかを祈り求められないのなら、同じことが繰り返されるのは当たり前だった。

何度も繰り返されることはむしろ、私が理解するためて私のためだったのだから、それはなんてありがたいことなんだろう。ずっと間違っていたのに、そしてこれからもきっとすぐには全てなど出来ないはずなのに、見放されていないというのは、どれだけありがたいことなんだろう。

私にとっての「嫌なこと」「苦しみや悲しみがあること」のその正体は、神からのゆるしの招待状、ゆるしの機会の入り口、ここだからこそ(今だからこそ)開けてもらえている「扉」という「恵み」であり、かけがえのない贈り物であったのに、それを「嫌なことだから現実を先に変えたい、怖いから早く終わらせたい、お金や時間をかけてなんとか…喉元過ぎれば…、世界の遠くで起きている、私には関係ないこと」と、本質を見ることなく受け取り拒否し、維持し再生してきた。
「嫌なことや苦しみ」が消えないのは至極当然で、突然増えたり、突然どこかに消えたと思ったらまた、ふと他のことを通じて出てくるのだった。

私は何も終わらせずに、ただ時間という仕組みの中で起こる出来事だけを見て、それらが全てだと思いそれらだけを(意味のない世界だけを)、同じところを、ぐるぐると歩んできていただけだったのだ。
真に進むということなど出来ていなかったのだ。

これからは毎瞬、今までの逆をやっていくのだ。全てをそのままに受け入れること、拒否、除外をせず、終わらせていくために(喜びとして全てを受け入れるために)、自分と世界を直視していくのだ、と思う。

どうやって受け取っていくのか、どう終わらせていくのかも、ひとつずつ導かれ習っている。既に起きていることの中からそう解釈せざるを得ない。起こるべくして繋がるべくしてという体験と経験をしている。ゆっくり(と私は感じるけど)、無理のない一歩二歩先をとても優しく与えられているように思う。そしてそれを喜んでもらっているとも感じる。歓迎されていると感じる。

何が起きていても、支えられて導かれて恵まれてしかいなかった。敵なんてはじめから何処にもいるはずがなかったのだ。そう見えるなら、そう見ている自分自身を全て預け、立ち止まり見上げるだけで良かったのだ。私は無力そのものだったのだから。これ以上の福音があるだろうか。
(無力とは自己否定や自己卑下とは真逆のもので、むしろ無力と見れることは完全と見れること、自分を完全に信じることと繋がる)

人生でやるべきことはこれらだけだったのだ。人生の物語(わたしがどうなって何をするか等)は、そこに立ち返るための機会でしかなく、何だったとしても変わりなどなく(どの学校でどの教科書で立ち返るかの違い)、比べるものでも選べることに価値があるのでもなく、与えられたものをどこからどう見れるようになっていくかだけを問われているのだった。

この、終わらせていく道を歩む時、全てをご存じで全てに力のある「共にいてくださっている方」がいることを、私は日々の味わいの中からも確かに信じはじめている。


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