改造(1)

 私は、例えば、「走るには地面から足が離れる際に摩擦があるのだから、どんなに蹴らないといえども人は結局蹴って走っているのである。だから〜」と言ったような論理を展開する人種があまり好きでは無い。誤解を恐れずに言うと嫌いである。
 いかにも本質を捉えたようで全くズレている、擬似相関かのような言説は世に蔓延っているが、これは畢竟、ある種正しさを持った主張が、完全な形で発表せられないことに端を発しているような気がしてならない。先程の主張でいえば、「脚は落とすだけ。地面からの反力でバネのように進むのであって、蹴り上げたりするのは理想では無い」といった具合の、的を射ているようで実は言語化の解像度が高くない言説を、人びとがウンウンと悩まざるを得なくなった結果、解像度のあまりに低い擬似的な安定釣り合い点に議論が落っこちてしまい、程度の低い言葉の羅列が(しかもこれがある種の「わかり易さ」を往々にして持ってしまったり、脚が速い人の生存者バイアスに引っかかってしまったりして)、世の中を席巻してしまったりするのである。
 本質は、難しいものであるが、掴んでしまえば、我々が日本語を使うように当たり前に溶け込んでしまう厄介なものである。外国人からしたら日本語学習はとてつもなく苦を極めるだろうし、日本人にだって下劣で意味を全くなさないような「日本語」を、あたかも日本語かのように話す者もいる。そういった類の類推をしていただければ良い。
 私は、そのような風潮に断じて立ち向かわねばならないと心に決めている。そしてそれが、どのようにして世の人に受け入れられるのか、興味がある。
 これは、具体的な練習内容を指南するために書くものではない。しかし、私の一意見としてある種方法論というか、個別具体の内容を述べることに際して、そのアウトラインを眺めていただきたい。勿論、同意なされる部分があるのであれば、内容にも注目していただきたい。近年科学的で効率の良いトレーニングが俄に注目を集めている。よく言われることではあるが、科学とは反証可能性のことであり、この私の文章も批判、反証を前提に書かれていることに留意されたい。


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