食農倫理について調べてみた①

私は食べることが好きです。特に、つくった人がどのようにつくったのか「手触り感」のあるものを食べると小さな幸せを感じます。これは、祖父や父が実家の裏の畑でつくった野菜や、徒歩15分の山でつくったキウィやみかんを食べて育ったことが影響しているのかもしれませんが、今もその価値観は私の中に存在し続けています。

一方で、Beyond Meatがマクドナルド、KFC、ピザハットにグローバル供給する契約を締結するなど植物由来の人工肉が身近な存在になってきたり、遺伝子組み換え技術やCRISPR-Cas9等のゲノム改変技術等の進歩により、将来的に食べものをもっと自由自在につくることができるようになる未来を感じ、何だか心がざわざわします(参考)。

このざわざわの正体を知るため、私がこの先、ざわざわの正体に本気で向き合うほど興味があるのか知るために、いくつか本を読みました。このあたりの話は「食農倫理」という分野に該当するようです。

ここでは、私のざわざわが反応した本の内容と、それについて感じたことを、消化せず、徒然なるままに、書き留めておきます。

1/3の人が「食べること」を煩わしいと感じているらしい

食と農業に興味が湧き、いくつか本を読んでいたところ、衝撃的な記述がありました。

2018年12月6日から9日に日本でなさらたツイッターのアンケートで、1345名の有効回答のうち、実に39パーセントが食べることが面倒だと答えている。
「食の原理の史的研究 「農学栄えて農学亡ぶ」再考/藤原辰史(2021年初版)」p.9

食事をつくるのが面倒な人が多いのは理解できます。私は比較的お料理が好きですが、料理が面倒なことも、面倒で外食することも多いです。でも、「食べること」が面倒な人が40%近くもいるというのは衝撃でした。Twitter調査なので回答者に偏りがあるとは思いますが、それにしてもすごい割合ですね。しかも、シリアルバーやプロテインバーがコンビニの棚に並んでいることを考えるとそれなりには納得できます。数十年後、食事は基本的に錠剤やバーで済ませる世界が来るかもしれません。

過去、様々な文化がなくなってきました。「着物を着る」ことが楽しみだった人は、日本で面倒で着物を着る人が減り、着物を売る店がなくなるに伴いその楽しみを諦めざるを得なくなりました。「闘牛」を観たり、闘牛そのものをしたりするのが楽しみだった人が時代の変化とともにそれが出来なくなりました。生物として、「栄養をとる」ことや「食べる」ことは継続せざるを得ないかもしれませんが、「食事をする」ことは「過去の文化」になってしまうかもしれません。

農業の目的は、「農業を経済原理に乗っ取って経営するものとすること」?

上記書籍の中で、著者である藤原氏は、世界で初めて農学を学問体系にした「農学の父」アルブレヒト・ダニエル・テーア(1752-1828)が定義した農業の目的と完全な農業について以下のように紹介しています。

農業の目的とは、

植物体、動物体の生産によって利得を生み出すこと、すなわち利殖をその目的とする
 
「食の原理の史的研究 「農学栄えて農学亡ぶ」再考/藤原辰史(2021年初版)」p.29

最も完全な農業とは、

農業者の能力、生産諸力、資産状況に応じて、できるかぎり最高の利潤を持続的に引き出す農業
 
「食の原理の史的研究 「農学栄えて農学亡ぶ」再考/藤原辰史(2021年初版)」p.29

とのことです。

1769年にワットが蒸気機関を開発した頃の定義であるとすると、農業の目的を効率的に食物を生産し、利益を得ることとするのは納得できます。そして、書籍の中でも言及されているように、これは農業をできる限り工業化することで達成されるような気がします。見慣れた農業の風景が、地面の中や上で動植物を育てる作業である一方、農業が目指す究極的な風景が、工場の中で動植物を育てること/動植物を細胞を育てることだとすると、違和感を感じます。

ただ、これは農業の「成り立ち」についての説明であり、農業を今の状況に合うように変えていけばよいだけなので、あまり問題ではないのかもしれません。

渓流を泳ぐのが苦手なニジマスをつくるのはアリか

東京大学の教授・准教授の先生方が、それぞれの専門分野の現状と未来について書き綴られた本の中の環境倫理学が専門の福永真弓さんの章に下記の記述がありました。

例えばニジマスは交配や遺伝子組み替えによって筋肉質の体になりますが、そのニジマスの体は渓流で泳ぐのに適していません。美しい切り身がたくさん獲れるなら、魚の形がもはや本来の生活史に適さない形になったとしても、それはそれでよい、とも考えられます。

「未来探究2050 東大30人の知性が読み解く世界/東京大学未来ビジョン研究センター(2021年初版)」

この部分を読んで、私は人間が人間のエゴで他の生き物を生き辛くするなんてなんて「悲しい」ことだろうと思いました。

おそらく、「悲しい」の対象は2つあります。

・生物の一種に過ぎない人間が自分たちに都合がいいように遺伝子を操作して新しい生物をつくること
・上記でできた新しい生物から、オリジナルが持っていた能力を奪うこと

ただし、「悲しい」が、本来あるべき「理想」に対する現実の「差分」だとすると、そもそも「理想」は私が勝手に思い描いているものであるため、「悲しい」を分析しているようでいて、やはり「感情」の問題に落ち着いてしまいます。

この「感情」に対して以下のような反論ができますが、感情はロジックでは説明できないので、思考が進みません。

・新しい生物を作ることはいけないことなのか
・新しい生物なのだから、オリジナルが持っていた能力を持たないこと、オリジナルが持たなかった能力を持つのは当然ではないか
・人間は昔から動植物の突然変異を利用して人間が望む生物をつくってきたのに、なぜ、これを「効率よく行う」ことはいけないのか

つづく