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個と集団

「前回、メリットということを話されていました。このことに関して質問があります」

 メンバーが最初に手を上げて質問を始めた。

「メリットというか、ベネフィットというか、それは公共と個人の間で常に対立するものであると思うのです。集団は規律と滅私や無欲を求めますし、個人は承認と自由と自己実現を求めます。このバランスをあなたの星ではどのようにとっているのでしょうか?個と集団はいつもその利益を争うものとして地球では認識されています」

「なるほど。利益ですね。これは私たちの星で目指されているものと大きく関係があります。何を利益とするのかということ、目的です。集団は個の集まりでできています。ですから、集団がその構成員である個を弾圧したり搾取したりするとすれば、自ら自分の手足を切断しているようなものです。また、個は集団の構成員でいることで構成員同士で助け合うシステムとして利益を得ます。しかし、構成員同士がその集団の維持保存の方法論で対立することがあります。また、小さな単位での集団が別の集団と対立することがあります。小集団が協力し合うことで補完関係になることもできますが、対立することもあります。本来相補関係にあるはずの集団が個と、あるいは集団同士が対立するというのはどうしてでしょうか。おそらく、ひとつは人々が手段にこだわり過ぎること、もうひとつは心構えとしての目的意識の範囲が狭過ぎるということではないかと思います。

私たちの星では目指している目的の範囲が非常に広く、直線的な時間における実現時点が遠い未来です。広く長い目で物事を捉えたとして、最大のスパンと範囲は宇宙全体ですし、時間的には短くて数十年から長ければ数光年くらいです。しかし、日常の生活にそのスケールの見通しを持ち込むのは非常に難しいですね。

これらの視点は、私たちの星では人生の早い時期に学ぶ内容になっています。日本でいう幼稚園のような初等教育機関があるのですが、存在とは何か、何を目指しているのか、何のために存在するのかということを徹底的に基本的な個々の人生の指針ともなるようその年齢から話し合うのです。まず、最大のスパンである宇宙全体が、我々のコントロールなしにうまく回っているということ、そのシステムの完璧さを理解する必要があります。理解という言葉は適当ではないかもしれません。実感する必要がありますと言い換えましょう。このことを実感するには人間のような知的存在、概念的思考と選択という脳の構造を与えられている生き物以外の、反応で生きている生き物の世界を観察するだけで実感できます。自然界と地球人が呼ぶものの中に、地球人がほとんど手を入れない深海や高山や秘境と呼ばれるような場所でそのシステムが完璧に働いていることを感じたり、宇宙の星々の壮大なスケールでの物理的な動きを感じたりするだけでも理解できるようなものだと思います。私たちがどうこうしようとしなくても、したとしても、すべてはなるようになるのです。すべては自律し、呼応し合い、美しく完璧です。

選択というコントロールを持つ存在はすべて、選択により自由を得ます。選択の自由には責任が伴います。選択は自由と責任を我々のような生き物に与えてくれます。選択のためには概念という編集能力が必要です。この編集能力が私たちに自由という翼を与え、同時に責任という鳥かごを与えます。この編集能力は個人を集団から認識させ、アイデンティティを与えます。アイデンティティは言語と密接な関係にあり、名付けという行為によって行われます。ある一定のパターンを見つけたら、そのパターンに名前を付けることによってカテゴライズを行い、そこに属するかどうかによって暫定的な座標を与えるのです。座標がないと、どんな選択の可能性があるのかということを知ることはできませんが、座標があると個別の可能性に対して選択していることを認識できるようになります。選択することで自由が生まれます。自由が生まれることで、選択の結果を見ることになります。選択の結果がある程度集まったら、どのパターンの事象に対してどの選択を行うとどのような結果を得るかということをカテゴライズをすることができ、その選択の是非を問うことができるようになります。是非を問うということが責任という概念をもたらします。この是非は短期的な結果についてのみ判断ができます。非常に長期にわたって広範囲に伝播する影響については検証のしようがないため、短期的に目の前にあることを見て、それが良かったのかどうかということだけを見て判断するわけです。

しかし、広く長いスパンを持って物事を見ると、最終的な結果というものは実は存在しないことが理解できます。因果は永遠の関係性なので、すべての影響について一人の個人や小さな一時期の集団が情報を得ることはできません。また、集団の構成員は非常に流動的です。単純には死や誕生や移動などで物理的な構成員が変わります。また、特定の集団における構成員が所属する別の集団の構成が変わることによる影響も少なくありません。例えば、会社という集団の構成員の家族という集団の別の構成員が成長したり生まれたり亡くなったりすると、会社という集団における件の構成員のパフォーマンスが変化しますから、会社集団の質的な構成が変わります。

私たちの星では、このことを重要視します。目的は宇宙全体の満足と悦びに繋がるための選択をすることであり、今集められるだけの情報から、自分を含めたできる限り広く長いスパンの人々――自分の星だけでなく、自分の子孫だけでない過去に存在した人々も含めた人々――に悦びをもたらす選択は何かということを考えます。

選択に際して、心のどこかでうしろめたさがある場合、個人的な喜びは得られても、一緒に悦ぶ悦びは得られないのです。この感覚的な差が、私たちの肉体的なシステムにも大きな影響を及ぼしていきます。できないことをできないと言わないこと、わからないことをわからないと言わないこと、助けてほしい時に助けてほしいと言わないこと、結果について責任が取れるような十分な情報がないときにそのことを正直に言わないことなども、私たちの星では避けるべきこととして認識しています。むしろ、そういったことを軽視することは個人の健康を損ね、集団に負担をかけます。

だから、私たちの集団では失敗は構成員全員で似たようなことが起きたときのためのデータとして認識し、事例を蓄えて分析します。難しい決断を共有し、責任も分け合います。個人に決断をゆだねてその責任を問うことはしません。集団にとってもその構成員にとっても利点がないからです。

同じ状態を続けることができないということも、私たちの星では当たり前の概念としてあります。同じ状態をキープできれば平安が来ると考えないということです。平安はむしろどんな状況になっても対応できるという自分たちの能力のポテンシャルに頼ることでもたらされています。

また、議論は正しい回答を得るために行われることがありません。立場が違えば意見が違うのは当たり前のことですから、方法論も当然違ってきますし、目前の問題解決ということに関して議論が起きるのは当然です。でも、どちらが正しいという回答を得ようとすることはありません。私たちの星では、議論は参加者全員の利益を生み出すためのツールでしかないため、最初に出された誰か特定の個人の意見がそのまま通ることはありません。新たな視点を取り入れた最高の解決策を創り出すための議論だからです。議論自体を悪いものとして避けることもありません。

このように、私たちの星では利益、メリット、思わしい結果、というものを広く長いスパンにおける最善を選ぶことと定義し、そのための手段や意見にどの個人もこだわりません。それは、私たちが自分たちの選択能力を信頼しているからです。短期的に結果が思わしくなかったものであった時に、それを受けて別の選択をしていく能力が備わっていることに対する信頼があるからです。私たちはいつでもよりよい選択を続けていく能力があるのです。それは個人もそうであるし、そういう個人の集まりである集団もそうで、集団の中にある個々人の信頼の上に私たちは集団としても未来を選んでいるからです。個人と集団は同じものです。私たちは便宜上ファシリテーターを持つことはあっても、リーダーとフォロワーという責任を一人で背負うシステムを持っていません。だから、利害関係が発生しないのだと思います。構成員は構成員としての自覚があり、すべての構成員は同じ責任を担い、協力し合って信頼のうちに選択していきます。個人の喜びは短期的な結果のための選択の結果なので当然短期的にしか続きませんが、集団や広く長いスパンに亘る悦びが与える個人の悦びは他の個人と共有でき、非常に大きく、長期間の満足を個人にも集団にももたらします」

 タウリが長々と息もつかずに話し、最後に質問者を見ると、「いいですね。とてもうらやましく感じました」と質問者が言った。質問者の目はキラキラしていた。

続く

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