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【ドラマ】『僕のいた時間』を観て共感しすぎて泣いた話(前編)

Rickyです。

ひとつ前のポストで、三浦春馬さんの事を書きました。
で、改めてこれまで観た作品を数えてみたら、ちょうど10タイトルありました。
まだまだビギナーです😅

なにから書き始めるのがいいのか、観た順なのか(別に順番にそれほど意味はないし)、お気に入り順なのか(最初の一本を書いた後、テンションが保てなさそう)、いっそランダム?とか、3秒くらい悩みました。

で、選んだのが『僕のいた時間』です。

このドラマは、ファンの間では、春馬さん本人による持ち込み企画で実現したドラマとして、よく知られています。出演作の中でも、いわば伝説の作品。

筋肉が徐々に麻痺していく病気『ASL』と共に生きる青年を春馬さんが演じ、役作りでは、かなりの減量をしての熱演。最終回あたりは、まるで別人のようになっていて、話題にもなりました。

まだまだ浅い春馬沼だった頃から、この作品はあちこちで絶賛されているのを見聞きしてたし、賞もとっているし、きっといいんだろうなぁ、いずれは見なきゃ、と思っていました。

そう、いずれは‥

実は、私、いわゆる「難病もの」が大の苦手。
もともと好きじゃなかったけど、数年前から、自分自身が厄介な健康上の問題を抱えるようになり、ますます苦手になりました。
でも、「難病もの」って、総じてヒューマンドラマとしては、いいと言われる作品が多い。
基本プロットは大差なくとも、そりゃ、主人公にドラマチックな事が起これば、ドラマだから一生懸命生きるし、そんな人を観てたら周囲も変わるし、人間愛が深まるの当たり前なわけで。

わりと、イージーに「いい話風」な物語作りやすい。

というわけで、難病で苦しむのを観るのがいや、という事に加えて、基本プロットは同じ、というのもあまり好きじゃない理由かもしれません。

でも、この記事を読んで、どうしても観てみたくなったのです。

三浦春馬が語っていた情熱「なぜ僕がALSの役をやりたいと思ったか」

このインタビューの中で、春馬君はこう言っています。

こういう認知度の低い病気を、もっと世間に伝えていかなければ、といった正義感とか使命感はなかったですね。悔しいのに殴れない。優しくしたいのに抱きしめられない。そういう、動きたいのに動けないもどかしさとか、意識ははっきりしているのに、体がいうことをきかない歯痒さのようなものを、芝居で表現してみたかった。とにかく、何か難しい役に挑戦したかったというのが、正直な気持ちです

このインタビューは、放送からだいぶ時間がたってからだと思いますが、ここで語られている事は、『役者職人』三浦春馬の正直な気持ちなんだろうと思います。放送当時の番宣の動画などを観ると、
「普通の青年が難病を抱えて成長する姿を通して、家族とはなにか、愛とはなにか、という事を伝えたい」
みたいな優等生コメントを、時には場違いなほどに感極まりながら、連発してる春馬君。

私はそういう動画をいくら観ても「ま、いずれね‥」としか思わなかった。
でもこのインタビューを読んで、猛烈に観たくなり、ネタバレサイトで、最後に主人公がなくならない事を確認の上(笑、いやもうマジでなくなるのは無理)、観る事にしました。

このドラマ、先輩ファンのみなさまによると、7-8話以降が観ててつらい、と。
そうなのか、じゃ、前半は大丈夫か、とお気軽に見始めたわけですが、もう1話目から辛いのなんの。

もう、いちいち、自分自身の経験とダブルんですね。
時計の針が回ってる事にも気づかず、なんとなーく適当に生きてた自分。
世間の期待のキャラ設定で生きてた自分。
ほんの少しの身体の異変に気づかないふりをする自分。

おい、拓人!ここ!しっかりするところ!

と初回から叫びそうになりました。ま、あの時の自分にそれを叫んでくれる人がいたとしても、耳は貸さなかったと思うけど。

一般によく知られている『僕いた』の名セリフ言えば、物語の後半で、

死ぬのが怖いんじゃない。生きるのが怖いんだ

と、拓人が呼吸筋の麻痺が進行する中、絞り出すようにメグに訴えるシーンですが、もう、そこに至る以前に、共感するセリフやシーンが寄せては返す波のように次々と繰り出されるわけです。

例えば、お風呂に入っている時に異変に気づく(病気によると思いますが)とか、中途半端ににネット検索して、「いやいや、自分はこんな深刻じゃない」と根拠レスに打ち消すとか、唐突に医師である父親に電話して、誤診の確率を聞いてみるとか。

家族と話を聞きに来るよう言われたのに、ひとりで行くとか、1番近い人にこそ最初に話すべきだけどなかなか話せないとか、で結局、心を閉ざすとか。

病気を受け入れてからも、周囲に何をどこまでカミングアウトするか、周囲に助けてもらう自分を受け入れる事の難しさ、それでも前を向いて「今を生きる」と心に誓うに至る心情、そして、それを実行する事の難しさ。

とにかく、私の事、ずっと見てた?っていうくらい、いちいち実体験とリンクする。
あ、いや、私の方が後だった。見てたわけじゃなかった。これ、単なるありがちな難病もののプロットだ。
私が見事にそれをなぞっただけだった。。。

もう、1話見るだけで、ゼーハーします。 
これは想定外にハードだぞ。

逃亡劇が苦手で、危うくTWO WEEKSを挫折しそうになった私なので、『僕いた』も、途中でやめちゃおうかなと何度も思いました。けどできなかった。シーンを追うごとに、どんどん春馬君は動かなくなり、その分演技が研ぎ澄まされていって、ストーリーとかより、もうほんとに春馬君に乗り移った拓人の心情を、1ミリたりとも見逃すもんか!という気持ちになっていたから。

で、後半は一気見、からのリピする事、数回。

やっぱり、何度見ても1番泣けるのは、拓人が3年後の自分に「今を生きていますか」と書くシーンです。

病気と共に生きて迎える3年後なんて、私だったら想像できない。
でも、そう拓人に書かせたのは、やはり想像の世界で作られてる物語なんだよなぁ。
書かせた、という事は、それを答え合わせするシーンが当然あるわけで、この後、3年も進行性の病気と共に拓人は生きるのかーと思うと、とにかく泣ける。

『僕いた』がさりげなく示している事のひとつに、未来なんかわからない方がヘラヘラと楽しく生きられる!という事があると思うのですが、このシーンでは、未来がわかってる方がつらい、というのをこれでもかと突きつけられている気がして、さらに泣きました。

そして、なにより、実体験として、私自身が、現実を受け入れて前を向いた時も、全く同じ事を思い、そして、今もそう思って毎日を生きている。
これも、拓人のセリフに出てきますが、「生きるために生きる」みたいな事になっちゃって、たまに迷子になったりするけど、でも、今を生きる以外に、生き方がわからない。

たぶん、難病当事者が受け入れなくてはいけない事のなかで、これが1番の核心で、最も辛い部分だと私は思います。
そこを、前向きの証として、ポジティブなニュアンスで描き切ったのは、やはりフィクション。
絶対ただのポジティブニュアンスでは、先行き行き詰まるぞ、と思うだけでまた泣ける。

3年後の自分に手紙を書いた時点では、わかったようで、わかっていなかった「今を生きる」。
このコンセプトが、一貫して物語の軸になっていきますが、そう簡単に実行できないんだよね。
それがわかってるから、また泣ける。

とにかく、たった一行の手紙なのに、思い出しただけでも泣ける。

私がもし女優になって、泣くシーンがあったら、絶対あの手紙の事を思い出して泣く(笑

そんなこんなで、長くなってきたので、続きは後編で。

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