災厄としてのアナロジー~谷口裕貴『アナベル・アノマリー』書評~

谷口裕貴が帰ってきた。第2回日本SF新人賞作家による9年ぶり、単行本としては実に19年ぶりとなる新作である。本書は、2001年と03年に雑誌発表された短編2編に、設定の共通する2編を書き下ろした連作となっている。

本書の設定は次のようなものだ。サイキックを人為的に創り出すレンブラントプロジェクトによって誕生したアナベルという少女は、たとえば銅像を宝石に、都市をキノコにといったふうに物質を変容させる力を有していた。しかし誕生した時点からその力は本人を含む誰にも制御できずに大惨事を巻き起こし、アナベルは周囲のサイキックによって殺される。

だが、アナベルの霊魂(のようなもの)は存在し続け、アナベル・アナロジーと呼ばれる彼女ゆかりの品を依り代として世界各地に出現、そのたびに都市がまるごと壊滅しおびただしい死者を出していた。最初の事件で生き残ったサイキックはアナベルの押さえ込みを目的にジェイコブスという組織を設立。ジェイコブスは各国の主権も個人の人権も無視できる強大な権力と、配下のサイキックも使い捨てる冷酷さとを併せ持ち、今日もアナベルを追って世界を駆けるのだった。

本書を一読して感じさせられるのは、最初の2編の古びていなさ加減だ。最初の作品が発表されてから同時多発テロがあった。東日本大震災があった。SNSとスマホの普及があった。コロナ禍があった。ロシアのウクライナ侵攻があった。またSFの世界でも飛浩隆の復活があり、伊藤計劃のデビューと死があり、大きなトピックがいくつもあった。当時、中国や韓国のSFが多数邦訳され、SFの枠を超えて読まれるなど誰が想像したろうか。

にもかかわらず最初の2編は、20年を経て書き下ろされた後の2編と何の齟齬もなく繋がるばかりか、設定面でいくつかの共通点を持つ荻堂顕『ループ・オブ・ザ・コード』と比較しても遜色がない。私は念のため初出バージョンも読んでみたが、多少の加筆訂正はあるものの根幹の部分はまったく変わっていなかった。驚くべき想像力の強靱さである(誤解のないよう断っておくと、後の2編も同じくらい高い質を保っている)。そしてそれを裏で支えているのが、錯綜した視点人物と時系列を扱いながら、読者にストレスを感じさせない統御され切った語り口である。これは相当に高い技術の産物だ。

物質を変容させるというアナベルの能力は、ダリの絵画に迷い込んだかのような幻惑感を読者に与えるだろう。むろんこれ自体非常に蠱惑的なのだが、本書が読者に衝撃を与えるとするのならば、それはアナベル・アナロジーという仕掛けによるものだと私は考える。

アナロジーとされるものは、それ自体としてはありふれたものばかりだ。たとえば、コーンポタージュスープ、赤いキーボード、メッツの野球帽……などなど。これらはアナベルを呼び寄せるものとして厳しく禁じられ、アナベルの名に至っては口にするのも忌まわしいものとされる。日常的な物事が、連想によって世界そのものを吹き飛ばす爆弾になりかねないという恐怖。

つまりここでは、連想や隣接性を用いてある記号を別の記号で表現するという、われわれの思考様式そのものが危機にさらされているのである。そのとき、人間の想像力は決定的な変質をきたすだろう。私の説明が拙くてピンと来ないという向きは、マスクというゴム紐のついた布きれ一枚に対し、この数年でどんなイメージが付着したかを思い出してほしい。こうしたことが、本書では多大な被害を伴い物理レベルで起こるのだ。

しかし思えば本書そのものが、読者に対して破壊的な想像力を呼び寄せるアナベル・アナロジーだと言えなくもない。覚悟のうえぜひご一読を。


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