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たとえすべてが置き換わっても~新馬場新『沈没船で眠りたい』書評~

昨年『サマータイム・アイスバーグ』で小学館ライトノベル新人賞優秀賞を受賞した新馬場新の長編が出た。

舞台は2044年の東京。AIの普及と共に人間は職場を奪われ、ネオ・ラッダイト運動と呼ばれる反AIの社会活動が活発化している。運動は先鋭化し、ついには企業を狙った自爆テロが起こる。

警察は自爆テロを起こした大学生・有村と関わりを持つ奥平千鶴を別件逮捕し尋問する。だが奇妙なことに彼女は有村との関係は認めたのに、別件逮捕の容疑となったロボットの不法投棄についてだけは否認し続けるのだった。

本書の叙述は、事件を捜査する刑事の視点と、2041年に運動と関わり合いを持つようになった過去の千鶴の視点の、双方を切り替えながら進行する。

設定から本書を分類するならディストピアものになる。そして普通ならば『すばらしい新世界』のように、工業化社会における人間性の追求というかたちで展開するだろう。だが本書は、そういう点は一顧だにしない。少なくとも著者の関心の中心はそこにはない。

代わりに焦点が当てられるのは、千鶴の人物造形だ。彼女は下流家庭の生まれで、幼少期の事故による顔の傷にコンプレックスを持っており、家族との関係も良好とは言えず、無理に無理を重ねて入学した大学もAI時代においては何の社会的アドバンテージにはならないときている。彼女が大学で、美住悠という育ちも性格も正反対な学生と出会うところから物語は動き出す。だがそれも、千鶴のコンプレックスからの解放といったお決まりな展開にはならない。

本書では過去も未来も灰色の中で鬱屈した千鶴の内面が、繰り返し、粘着質に、これでもかこれでもかと描き込まれる。小説として面白いかつまらないかと言われれば面白いのだが、正直ベッドの中で寝酒代わりに読むタイプの作品ではない(私は途中まで読んで寝たところ、夢に出てきてうなされた)。

鬱屈した自我と世界が鋭く対峙するという意味で、本書は井上剛『死なないで』、長谷敏司『あなたのための物語』などの系譜に連なる息苦しい傑作である。

けれども、世界と対峙する「わたし」とは何だろう? 「わたし」は世界と対峙できるくらい揺るぎなく確かなものなのだろうか?

本書のキーワードとなるのが、テセウスの船だ。ある船の構成部品がすべて置き換わってもその船は同じ船と言えるのか、というアレである。

本書においてテセウスの船とは、AIによってすべてが代替可能になった人間の労働力のメタファーである。しかし同時に本書は、テセウスの船を個人に対しても適用してしまうのだ。ネタバレになるので詳細は書かないが、おそろしくミもフタもない展開として。こういった形而上的な問いをむりやり形而下に引き下ろしてしまう点にこそ、SFの知的で、かつ野蛮な魅力があると私は思う。

世界も、個人もすべてが解体されていく。いくら掬っても指先からこぼれ落ちていく砂のような虚無の果て、千鶴はどこへ行き着くのか。その先は読者みずから確かめられたい。


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