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20年目の〝夏の終わり〟~秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』をめぐって(6・完結)~

【ご注意】本稿には秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』、『猫の地球儀』のネタバレがあります。

(6)かぐや姫としての伊里野加奈~夏の終わり

(承前)その問いは言葉を換えて言えば、浅羽と伊里野の間に生じた感情を何と呼ぶかという問いに他ならない。それは仕組まれたがゆえに恋の名に値しない、恋の偽物だったのだろうか。

そんなことはない――と、浅羽も伊里野も答えるだろう。仕組んだ側である椎名でさえも、先に引用した浅羽への手紙の続きでこう述べる。

 (略)しかし、だからといって、ブラックマンタのパイロットとして生きてきた伊里野加奈が最後の最後になってその目で見、その肌で感じたものが、それを与えた側の動機の罪深さによってニセモノになるとはどうしても思えないのです。

だとするならば、読者が本書から受けた「感動」はどうなのだろう。深夜のプールでの出会い。不安を抱えながら過ごした日常。文化祭の高揚。大笑いした鉄人定食の回。絶望的な逃避行。そして為す術もなかった結末。

それらはリアルだった。読者自身の目で見、読者自身の肌で感じたと言えるくらいめちゃくちゃリアルだった。だからあの圧倒的彩度と密度で読者の前に繰り広げられた57日間もまた、秋山のたくらみが知られた後もなおニセモノになるとはどうしても思えない。

しかし今回再読してみて、私はこの点についてひとつの仮説に思い至った。本書が読者を惹きつけるのは、小説的技巧だけではなく、もっと深層に訴えかける何かがあるからではないか。

浅羽が伊里野とはじめて出会うのは前述の通り学校のプールであるが、そこはただの水泳のための施設ではなく、

 (略)幻想的なまでに凪いだ水面そのものよりも、何光年もの深さに映り込んでいる星の光に目の焦点を合わせる方がずっと簡単で、まるでプールの形に切り取られた夜空がそこにあるように見える。

と、明らかに空のイメージと重ね合わされている。そして浅羽と伊里野の別れは、

 伊里野が空に帰っていく。

という一文で結ばれる。

私がここに見出したのは、空からやって来て空へと帰っていくかぐや姫のイメージであった。そして伊里野がかぐや姫だとするなら、あらゆる小説的な要素が解体されてもなお読者の心理的基底に響く、物語の元型としての神話が残ることになる。

そして二度と来ない夏は終わる。エピローグで浅羽は、あのすべてが始まった園原基地の裏山に、空へ消えていった伊里野にも見えるよう大きなミステリーサークルを造ろうとする。かぐや姫の残した不死の薬と手紙とを、富士の山頂で燃やした帝のように。

このエピローグを読む私の脳裏にはいつも、あの2003年、本書が完結した年の『熱闘甲子園』でのエンディングテーマが流れるのである。深く、しめやかに、逝く夏を惜しみつつ。

夏の終わり 夏の終わりには ただ貴方に会いたくなるの
いつかと同じ風吹き抜けるから

森山直太朗「夏の終わり」

ところで『DRAGONBUSTER』の続きはまだですか?(終わり)


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