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デザインが変わり続ける定規

| はじめに

《私はちょっと変わっているので...》
このセリフを”非常識な行いの正当化”としてどこか誇らしげに使う人に悩まされることが度々ある。エピソードは特記しないが、このモヤモヤ、わかる人はわかるはずだ。

”多様性”という”曖昧な感覚のポジティブキャンペーン”が、おそらく発案者の意図とは真逆の方向で流行っているのだと思う。多様性から派生した”自由を良しとしそう”な言葉たちの賞味期限が切れ始めているのを感じる。もう数年前から。

| なにが起きてるんだろう

多様性という言葉は、良いことをしました。
戦い抜いて疲弊した姿を”美しい”と労ってくれました。
多様性という言葉は、悪いことをしました。
すべてから逃げ回る姿を”美しい”と褒めてくれました。

多様性は、努力しないことを容認どころか応援しているように思えてならない。本来は

《きっと何かを変えられる》と信じて《人生を賭けて覚悟を決めた人たちの努力の過程》
から生まれた《絶望》のまたその中から生まれた《違いを容認しよう》

という風潮なんだと思う。
ゼロとされている点に近づけないもどかしさを知っているマイナス出身者で、『どうかマイナスの過程にも目を向け、存在を認め、評価軸を長くしてくれたなら、これまでの苦悩が無駄じゃなくなり、後に続く同じ苦悩も緩和できるはず』という、優しい慈しみの感覚だったのだと。

定規のデザイン戦争

それが、《マイナスを認めることは怖くてできないから、なんとかゼロっぽいことをして生き抜いてきて、それでも気づけばマイナスに足が入ってしまう自分が怖くて不甲斐なくて認めたくなくて、努力して変わるのもダサいし大変だからって、やっとみんなが頑張って作った、マイナスまで目盛が伸びた定規の、不変のはずのゼロの位置を、右にぐーーっとずらして、見かけ倒しの上位互換にほくそ笑んでいる》なんて事が起きている。

実際は定規が伸びただけで、その人の位置は何も変わっていないのに、そこに固執して目盛をいじる。人のキャパには限界があるから、遠くの方までマイナスの目盛りが広がっちゃって、見えにくくなっちゃって...
自然の摂理というか、マイナスゾーンは全体の数がプラスより少ないと思うから、本来そんなに細かく目盛を振らなくてもいいと思うのだけど、そうやって自分を上に(どこが上なのかわからないけれど)押し上げたい人たちが定規をぐにょーーっと伸ばすから《いやでも目盛が細かく刻まれちゃって、見せなくてもいい見たくもない詳細が、密度がない分開けっぴろげになっちゃって、全然興味もなかった層の人たちが自分語りや問題提起の議題にあげるようになって、そっちの処理に追われてマイナスゾーンの人たちが疲れちゃって、本来の目的に取り掛かる元気ゼロ》っていうオチが見えたりする。


| 表現を妥協しない

倫理観という観念そのものを、多様性という形のない観念で無効化する動きが、私は見ていてとても怖い。自分なりの正義さえも、多様性は無効化にしようとしている気がして、骨のない身体がグニャグニャと、けれど、しっかりと歩けてしまう今の世界を、ホラーに感じる。成り立つはずのないことが成り立ってしまっている、不自然に対する気持ち悪さだ。

世界は広いという安心感

《そういう人(理解できない人)はたくさんいるから》と、全体の数が大きいことを強力な励ましワードとして使う人がいるけれど、かつての私はこの言葉を、大勢いるからなんなのさと、批判的に受け止めてきた。でも今、この”言葉たらずな賢者の言葉”の意味を、後に続く人に伝えたいと思う。この言葉は名作の題名みたいなもので、読み進めれば進むほどに真意が見えてくる、深くて広い助言だということを。

”世界中にたくさんの人間がいる”ということを、私たちは心から理解できていないし、想像しきれていない。2桁の序盤(10人程)位の人しか一度に相手はできないし、それで日常は過ぎていくし、体感ではそれが”世界”という感覚となって、私たちは生きている。
だけど、一度自分の周りの”世界”の範囲をぐっと広げてみると、2桁の後半(50以降で十分)に入った瞬間、相手をしていられないことに気づく。丁寧に、自分の価値観と照らし合わせた正直な返答や対応が疎かになってくる。キャパが終わるのを体感する。
そうなってくると、”世界””相手にする”ということが、いかに無駄で面白くないことかわかる。相手にし続けてもいいんだけど、私が私でいられなくなるから、やっていても身が入らないと思う。他人が操作するゲームを横から見ている感覚なのに、ダメージは自分の身体が受けているみたいな。実にドMで収穫のない無慈悲な時間の積み重ね。

96人

そんな摂理を、先日の展覧会で改めて体感できた。
見ず知らずの96人を通して、世界は広くてたくさんの人がいるという体感を。

全くの他人に、私自身も、作品も、電波ではなくて生身で披露するのは覚悟がいる。その覚悟と自分の人生に対する責任感が、”世界”を生きるための覚悟と、現実を受け止める責任感を与えてくれた。余白だらけの世界が怖くなくなった。

アンチに会えた嬉しさ

何無区(なんとなく)のことを好きだと感じてくれる人がいることが嬉しかったことは言わずもがな、何より心から安心感を覚えたのは、アンチの存在を確認できた時だった。嫌悪感と好感のツボが統一されていないから自然界はうまく回っている。
”自然の生き物でいたい”と常に思っているからこそ、アンチがいたことで、私たちは健全なループの中で生きれてるー!と安心できたのだ。変だし、こんな風に世界を見ることになるなんて、小さな頃の私は想像すらできていなかったけれど、これが真実なのだと思う。

表現を妥協しない

”非常識な非常識”をアピールする人たちに気がついて、ひとまず心が”ふぁっ!”と動揺しても、”世界”には他にも多種多様なダンスを踊ってアピールしている人がたくさんいるから、相手にしないで歩き続けて
体が勝手に踊りはじめちゃうくらいピンとくるダンスを探し続けて
自分の好きな音楽をかけて、自分のダンスを磨き続けて
理解できない何かに出会っても、離れてしまえばそれはただの”賑わい”だから。それはそれで”群れて生きてることの面白さ”くらいに”世界の美しさ”と言いまとめられる気もするから。

多様性ってなんなんだろうって考えたら、なんとなく、こんな言葉が溢れてきました。


fin.
麻裕


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