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歴史を描こうとする文集

書評:『現代建築宣言文集[1960-2020]』五十嵐太郎・菊地尊也 編、彰国社、2022年

 『現代建築宣言文集[1960-2020]』(五十嵐太郎・菊地尊也 編、彰国社、2022年)を読んだ。『日本建築宣言文集』(藤井正一郎・山口廣 編著、彰国社、1973年)の続編だけど、半世紀前の正編とはだいぶ様相が異なり、いくぶん疑問が残る本。
■巻末の執筆者一覧では16名中12名が学生と記されている。たとえば『WindowScape 窓のふるまい学』(東京工業大学塚本由晴研究室 編、フィルムアート社、2010年)や『小さな風景からの学び』(乾久美子+東京藝術大学乾久美子研究室 編著、TOTO出版、2014年)のようなリサーチをベースにした本でなら学生が主体になるのも理解できるけど、先人たちのテキストを歴史的に位置づけるこの企画で、純粋によりよい本を作ろうとしたとき、このメンバー構成は不可解に思える。50の収録テキストにそれぞれ解説が付く本書の構成は、たしかに大勢の分業にしやすい構成ではあるものの、たとえ一つのテキストの解説を書くにしても、そこでは広い歴史的視野と統一的な歴史観が必要なはずだ(正編では当時40代後半の建築評論家と建築史家である編者2名がすべての解説の執筆も担当)。学生の多くは歴史研究を専門として志す人でもないようだし、本書が建築史に対して担う責任は決して軽くなく、学生の習作にしてよい題材ではない。
■本書の範囲は1960〜2020年の60年間だけど、今年2月発行の本書の編集作業が2021年に終わっていたとすると、本書はその前年までのテキストを対象にしたことになる。これは歴史を客観的に捉えるには距離が近すぎると思う(正編で最も新しいテキストは出版時より17年前のもの)。なぜそこまで含めたのかは定かでないが、本全体の容量も厳しかったように見えるし、直近10年には手を付けずに2010年あたりで切り上げておく判断もありえたのではないか。実際、2010年代のテキストの選択は、それより前の年代と比べて恣意性を強く感じさせる。
■正編も明治以降の約60年間を対象にしているが、同じ60年でも2冊は時代が大きく異なる。建築に関するテキストの種類や量、文脈の複雑さが大幅に増しただろう続編の時代(戦後以降)は、正編と同等のサイズの本でまとめるのがそもそも難しいだろう。「あれがあるのにこれがない」という粗探しがされるのはこの手の本につきものだとしても、本書の場合、すでに自らこのフレームを設定した時点で、テキストの選定に主観性が目立ってくるのは避けられなかったと思う(であればなお、そこでは全体を支える生きた歴史観が求められる)。
■書き下ろしの解説が各テキスト(本文)の前に置かれるのは正編と同様にしても、続編では後ろの本文が2段組にされ(22字/行は建築分野の硬質な文章を読ませるには短すぎると思う)、本文が解説文より下位に置かれていることを印象づける。
■全体ヴォリュームの都合上、本文がところどころで省略されているのも正編と同様だが、正編では「編者の独断」によりテキストを「切断」することで「あるときは原著作者の意図とは違った形をとってしまったのではないかということを恐れる」意識があったという(正編「はしがき」)。しかし続編ではどうだろうか。たとえば「東京計画──1960」(丹下健三研究室)は全体で26個所もの省略が、こと細かにされている。省略記号が頻繁に差し挟まれる文章に読者は深く入り込むことはできないだろう。ページ数の削減に直結するような大きな省略の意義は理解できるものの、こうした削れるところは徹底的に削るという手つきにはサディスティックな欲望さえ感じてしまう。
■本書では「住宅は芸術である」(篠原一男)が唯一、「全文転載の許諾が得られなかった」として解説のみの掲載になっている。どういう事情か知らないけれど、安易に著作権者サイドの狭量と決めつけるのは避けるべきだろう。たとえば篠原一男の同じテキストが『戦後日本住宅伝説』(新建築社、2014年)には収録されていることと比べてみてもよいかもしれない。
■本書では他の収録文と比べて明らかに文章それ自体としての価値が低い文章が含まれている。それは高山建築学校、Any会議、『10+1』、アーキエイドなどに関する文章で、おそらくそれらの執筆者自身、別にその文章自体に特別な価値があるわけではないことを認めるだろう。それらの文章は本書の中でそれぞれの活動に言及するための「手段」として収録されたに違いなく、いずれの文章も、もし解説が付かなければ収録の必然性はほとんどないだろうし、解説の内容を超えた読書体験がもたらされることも期待しにくい。その意味で「本文が解説より下位に置かれていること」を顕著に示している。こうした文章の選定基準は「現代建築の概念を揺るがしてきた50の言説」(帯文より)という本書のコンセプトから外れるように思えるが、しかし限られた紙面において、他にも多くの文章が収録候補に考えられるなか、それでもこうした文章が入ってくるということは、むしろここにこそ本書の特質が見て取れるのかもしれない。
■60年間の50の言説は10年ごとに分節されており、各年代の冒頭にごく短く(約200字)、その10年間を概略する文章が掲げられている。たとえば最初の1960年代は「何もかもが若かった。」という文学的な一文で印象的に始まっているが、常識的に考えてみれば、(仮に本書に収録するのに適当なものがなかったとしても)60年代にだって老成した建築の思考や文章が存在しなかったはずはない。こうした現実との明らかな不整合に気づくと、そもそもここで10年単位で時代性を見ることにどんな意味があるのかと訝しく思ってしまう(正編にも明治・大正・昭和・戦後という分節はあるものの、それぞれの時代性を抽出して記述するようなことはされていない)。
■本書は積極的に「歴史」を描こうとしている。各年代の重要なテキストを収録することで結果として読者のなかにその時々の時代性が浮かび上がってくる、というのではなく、各テキストの存在に先行してなんらかの歴史像が想定されており、そのストーリーを浮かび上がらせる要素としてテキストが構成されている、という傾向が強いと思う(それはテキストのセレクトだけでなく、本文の省略の手つきや解説の口ぶりにもうかがえる。正編の解説はもっと本文自体に即して即物的だ)。しかし本書で収録できるテキストの数には限りがあるし(そのヴォリュームの枠組みを設定しているのもまた本書なのだが)、そもそも建築の歴史はその時々の「宣言文」を並べるだけで描けはしない。無理に描こうとすればそれは欠落の多い偏った「歴史」になりかねず、また個々のテキストはその「歴史」に従属したプロットとしてのみ読まれることになりかねない。未知の読解の可能性を狭めてしまう。
■本書は読んで得のない本では決してなく、むしろ様々なものを与えてくれる内容の濃い本だろう。けれどもここで書いたような観点があることも知って読んだほうが、よりよい読書体験になると思う。ずいぶん厳しく書いてしまったけど、こうした観点は多少なりとも専門的な素養がないと気づきにくいものだろうし、じつは僕自身が今、似たようなアンソロジーを編集し、そこで解説を書くことにもなっているので、ここでの批判はともすれば自分にも返ってくる切実なものだった。それも踏まえて最後に引用。

わたしは、きわめて単純な歴史家か、さもなければ、卓越した歴史家を好んでいる。単純な歴史家には、歴史に自前のものを付け加える力量もないから、自分が知りえたことがらをすべて寄せ集めて、それを選別することなく、誠実に記録することに精魂をかたむけるのであって、真実の認識については、その判断を読者にゆだねている。〔…〕
一方、きわめて卓越した歴史家たちは、知る価値のあることを選ぶ能力があるから、ふたつの報告から、より信憑性のあるものを選ぶことができる。そして王侯の状況や気質から、その意図について結論をひきだして、彼らにふさわしいことばを発させるのだ。〔…〕
そしてこの両者の中間にある歴史家は──じつは、これがもっともありがちなことなのだけれど──、すべてをだいなしにしてしまう。彼らは、われわれのためを思って、噛みくだく。自分勝手な判断をおこなったあげく、歴史を好きなようにねじ曲げてしまうのだ。というのも、ひとたび判断がある方向にかたむけば、話だって、そっちのほうに曲がったり、それたりするのは防ぎようがないからだ。こうして、知るにあたいすることがらを選ぼうとしながら、むしろ彼らは、われわれにとってより教訓になるはずのことばや行為を隠すことになってしまうのだし、自分が理解できないことは、信じがたいこととして、省いてしまうのだ。そしてまた、ラテン語やフランス語でうまくいいあらわせないことも、省いてしまう。彼らが、修辞やら議論やらを、大胆に展開し、思ったとおりに判断をくだすのはかまわない。でも、彼らのあとで、こちらが判断をくだす余地を残しておいてほしいものだ。素材を、勝手に短くしたり、選別したりして、変更やアレンジなどせずに、そのままの大きさで、まるごとそっくり、こちらにひきわたしてほしいのである。

『モンテーニュ エセー抄』宮下志朗訳、みすず書房、2003年、pp.60-61

初出:『建築と日常』編集者日記 − 2022-05-26


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