第22話 予知夢

暗い穴、その奥を覗き見る、明るい月の光。真の闇、その中から聞こえてくる、かすかな呻き声。時折夢に出てくるその穴は暗く、底が見通せないほど深い。その穴を満たすものは、漆黒。
これは、李さんの親戚の孫かひ孫が、今も経験している話。
李さんの親戚のその彼女は子供のときから、ある夢に悩まされている。毎日見るわけではないので、そこまで大きなストレスを感じるわけではない。しかしそれでも、定期的に同じ夢をみると、誰でも気になるじゃないですか。
その夢というのが、ある暗い穴の夢。その穴というのは、どうも井戸の穴のよう。一時期話題になった、某ホラー映画に出てくる井戸が、一番近いイメージとのこと。そうです、あの井戸。あの超有名な、長い黒髪の女性の幽霊が落ちた、あんな感じの井戸。
彼女の夢に出てくる井戸は、その例の井戸と同様、ブロック形状の石を積み上げて造られているそう。しかし全く同じというわけではない。相違点の中の一つとして、まずその井戸がどこにあるか、わからないとのこと。なぜかというと、夢の中で彼女は、月の明るい夜、その井戸の中をずっと眺めているからだそう。井戸の中は暗く、どんなに目を凝らしても、底どころか、中の様子がほとんどわからない状況。それでも彼女は周囲の様子を眺めることなく、夢を見ている間中ずっと、井戸の中を満たす暗闇を凝視し続けている。ほとんどの場合、大体20分から30分くらいの間に夢は終了する。たまに、中から呻き声が聞こえる、その程度。

「だけど一度、はっきりと言葉を発したことがあって…」
それは、何年も前のこと。その日、彼女はいつも通り就寝したそう。その夜見たのが、件の井戸の夢。夢の中の彼女は、井戸の中の暗がりから目を逸らさないこと以外はいたって普通で、その日の彼女もまた、夢の中に例の井戸が出てきたときに、
「またか」
とだけ思い、大して気にも留めなかった。その日もひたすら彼女は暗闇を見つめ、弱々しく漂う呻き声を聞きながら、時が経つのを待っていた。

ガシッ、ガシッ、ガシッ、

その夜の夢では、今まで聞き覚えのない音が聞こえてきた。最初、その音は暗闇の中を渦巻くかすかな呻き声の中に埋もれ、しばらく彼女はその存在に気付けずにいた。それが呻き声でなく、よじ登ってくる何かが内壁を掴む音だと気づいたとき、彼女はすでに暗闇の中で蠢いているものの存在を視認できた。それは黒い男、筋肉隆々の身体に、スキンヘッドの頭。
「一番近いイメージは、車のアウディーで運び屋をやっている、あのスーツ姿の男の人が主役の映画よ。スキンヘッドで細い頭、筋肉質な体型。顔は別として、体つきの特徴だけで言うと、その俳優さんと似てるかしら」
彼女は頭を動かせないまま、その男が井戸をよじ登って向かってくるのを、ただ見ていることしかできなかったそう。
迫り来る得体の知れない黒い男。彼女はひたすら夢が覚めるのを祈っていた。夢の中は常に月の明るい夜なので、月明かりに照らされ、次第に男の姿は鮮明になっていった。恐怖で凍りつく彼女。得体の知れないその男の接近に、彼女の身体は微動だにしない。その黒い男が手を伸ばせば彼女に触れられる、それほどの至近距離まで来たとき、男は顔を上げた。
「絶対に、逃さねえぞ!」
その男の顔は、あの有名なムンクの叫びに描かれた、あの人物と似ていたそう。ただ、その黒い男に関しては、普通の人と異なっている点があった。月明かりに照らされたその半裸の男は濃い灰色の皮膚に覆われ、眼球は暗い穴、というよりは黒い真珠が入っているように見受けられたそう。目の光沢が、彼女の怖気をさらに掻き立てた。そして何より恐ろしかったのは、
「その男の開いた口に、舌がなかったの。私には、舌が見えなかったわ」
確かに喋ったはずのその男。舌がなければ、その声はどこから発せられたのか。そして、暗闇の沼から男が這い出し、下半身が現れ、彼女をその屈強な掌で掴む瞬間。
「無事に戻って来られたの。あの暗い夢の世界から」
窓から差し込む朝の光を見たときは、ほっと胸を撫で下ろしたそう。

その数日後だったそうだ、本当の恐怖が彼女を襲ったのは。2011年3月11日、その恐怖は、突如訪れた。唸る大地、迫り来る汚泥、壊れていく街、荒廃した土地。あの日の恐怖は、何年も経った今でも、身体にしっかりと刻み付けられているそう。
「以前から、うっすらとは、気づいてたのよねぇ」
李さんの親戚のその彼女によると、どうも、井戸の夢を見た後、必ず日本やその近くのどこかの地域で災害が起こっているとのこと。彼女によると、初めてその夢を見たのは、まだ幼少の頃。時期は12月か1月の真冬頃。その数日後だったそうだ、阪神・淡路大震災が発生したのは。当時は井戸の夢をただの悪夢と思い、小さかった彼女は夜に泣きながら目を覚ましたそう。その日以降、彼女はたびたび井戸の夢を見るようになった。そして夢を見てから数日後、必ず災害が発生した。地震、洪水、津波、火山の噴火…何回か夢を見るうちに、彼女は呻き声の大きさと災害の規模、そしてその発生場所と彼女の家との距離が関係していると感じた。

呻き声が大きいほど、災いは近く、激しい。

小さく、離れた場所で起こる災害のときは、ただ井戸の中で蠢く暗闇を見つめるだけ。呻き声が聞こえるときは、激しい災害が近くで起こる予兆。そして、東日本大震災のときに、黒い男が現れた。
「あの男が現れたときは、本当に恐ろしかった。あの男に襲われるんじゃないかっていう恐怖と、夢から覚めて、何日か経ってから起こる災いの恐怖」
夢から覚めたときの安堵が続くのは、ほんのひとときだけ。後で恐怖がやって来るから。
「前は、2、3年に1度。呻き声も、はっきりと聞こえたことは、ほとんどなかったの。でも…」
年を追うごとに、彼女は頻繁に井戸の夢を見るようになったそう。特に最近は、1年のうちに何回かその夢を見るとのこと。

黒い男は、予言者なのだろうか。それとも、災いの主なのだろうか。

真実の光は、蠢く闇の中には届かない。


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