第19話 天国と地獄

「天国と地獄は、実は同じ場所なんだ。同じ光景を見ていても、ある人々には地獄として映り、別の人々には天国として映る」
それが、李さんの親戚のその彼の信条。これは、その彼が体験した話。

全てを失った、あの頃。目の前に広がる荒野とその上に散りばめられた瓦礫の数々。明日の食料も、収入を得られる手段もなかった。あの瞬間、彼の目に映っていた光景は、地獄。
日本に来た彼の家族、日本で生まれた彼。名前を変え、日本人として生き続けた彼らの家族。戦争が始まり、ラジオ放送は日本の勝利のニュースばかりを流し続けていた。自らを日本人へと変え、日本を自国だと自らに思い込ませた彼らは、信じ続けた、日本の勝利を。
敗戦、自国に裏切られた彼ら。
度重なる爆撃で何もかもを失った彼らは、自分たちの家があったはずの場所に広がった荒野を目の前にして途方に暮れていた。

暗澹としたその日、彼は夢の中で老人と会った。老人は豪奢な中華風の服を着ていた。その老人の身なりは、まるで王侯貴族。朧げな意識の中でも、その老人と相対した彼は何をすればよいかわからず、当惑していた。先に口を開いたのは、その老人だった。
「どうした? 浮かない顔をして」
喋っている言葉は、中国語。最早彼ら家族はまともに中国語を理解できないにもかかわらず、彼には老人の言っていることがわかった。
「私たちは、全てを失った。ここは地獄、もう終わりだ」
彼はそう答えた。すると、老人は言った。
「愚か者。おまえがいるのは地獄ではない。ましてや終わりでもない」
地面を指差した老人。老人がいる場所は、かつて彼らの家があった場所だ。
「食料がほしいなら、この地面を耕せばいい。食物の種を植え、育てれば食料が手に入る。作物が育つまでの飢えは、今あるものを互いに融通し合ってしのげばよい」
老人は懐から細長いものを取り出した。それは、木の根。その日の夢は、それで終わった。
次の日、彼は妻子に告げた。
「家があった場所に帰ろう。そこに、畑を作ろう」
彼らは当面の間、闇市で商売をして糊口をしのいだ。翌年、懸命に育てていた作物を収穫できた。どれも、育てやすい根菜ばかりだった。

終戦から数年が経過しても、貧困から逃れられなかった彼ら家族。農作物を売る生活で得られる収入など、たかが知れている。周りの人間も、彼ら自身も、貧しかった。そんな状況下で始まった、半島でのあの戦争。同じ民族が、大国の利害の都合に左右されて殺し合う、そんな戦争。戦争は、特需という富をもたらした。彼は、兵器を造れなかった。資金がなかったことと、人の血を吸って金を稼ぎたくなかったことが、その理由だ。
特需で豊かになった人々を目の当たりにした日、嫉妬と憤怒が入り混じった感情を胸に抱きながら床に入った彼。その夜、老人は再び夢の中に現れた。
「どうした? 浮かない顔をして」
老人の話す言語は、なぜか中国語。その老人が彼ら家族の先祖であることを、実は彼は知っていた。彼は両親と祖父母から、先祖の話を聞いていたからだ。彼は浮かない顔をしながら、
「どうして、同じ民族の者同士が殺し合う? どうして、そんな醜い同族間戦争を利用して金を稼げる?」
老人は相貌を変えず、一言放った。
「甘い。だから、おまえはまだ貧しい」
彼はわかっていたが、それでも老人の言葉に納得できずにいた。老人は続けた。
「さらに甘いのは、目の前の好機を逸していること。おまえの目の前に、ついに好機がやって来たのだ」
老人の発言の意図がわからず、キョトンとしている彼。戦争は、終盤に差し掛かっていた。老人は懐から何かを取り出した。
「戦争が終わり、富を得た者がいる。つまり、彼らにその富を使わせればよい」
老人は彼の前に手の平を差し出した。その上には、金属の球が1つ、鎮座していた。

翌朝目を覚ますと、彼は家族にあるプランを話した。
「これで、貧乏から脱出できる」
特需で資金を得た労働者層を囲い込み、彼が開いたパチンコ店は、大いに繁盛した。

その後、彼は順調に収入を伸ばしていった。彼はパチンコ業を拡大させ、ボーリングにも進出を果たし、さらなる拡大戦略を模索していた。食べ物には困らなくなったものの、子供が成長するにつれ、お金が必要なことには変わりなかった。
「何かもっと稼げる手段はないだろうか?」
悶々とした日々を送っていた頃、老人は再び夢に現れた。
「どうした? 浮かない顔をして」
彼はまず、今までの助言に感謝した。そして改めて、彼に相談した。
「もっと稼ぐ手段が必要だ。しかし、策がなかなか思い浮かばない…」
老人は「困ったやつだ」といった表情で頭を抱え、
「おまえはまだその段階か…まあ、いい」
老人は、地面を指差した。まさか、「また野菜を育てよ」と言うのだろうか、彼はそう思った。
「明日、xxへ行きなさい。そこで、私がおまえに教えて差し上げよう」

その次の日、彼は生まれて初めて幽霊を見た。言われた通りの場所に向かった彼。そこは農地。目の前に広がる畑の中央に、その老人は立っていた。老人は地面を指差した次の瞬間、その場から消えた。彼は呆気に取られていると、耳元で声が聞こえた。
「ここ一体の農地が売り出されたら、買いなさい。全てだ」
声がした方を振り向くと、彼のすぐ側に老人がいた。老人は、彼の方を向いて笑っていた。

それから数日後、農地は売り出され、彼は多重債務者となった。
「その直後だったな、本当の地獄が始まったのは」
今は天国にいるかのように優雅な暮らしを送っている彼とその家族。彼はそう言って当時の出来事を回想していた。今の彼には、孫もいる。
「金がなかったときじゃなく、金があるときに地獄を見るとは思わなかったな。あのときは、文字通り死ぬほど忙しかった」
彼は農地を購入してから昼夜を問わず働き、莫大な富を築いた。


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