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指先の小さなやけどから

料理をしているとき、熱い鍋に手を触れて指先をやけどしてしまいました。すぐに水で冷やしましたが、水ぶくれができひりひりと痛みます。指先の小さなやけどですが痛みはからだ全体に感じられました。そのときふと思いました。指先のこんな小さなやけどでもこれだけ痛いのだから、全身にやけどをしたらどれだけ苦しいだろうかと。

思い出されたのが1977年に横浜で起きた米軍機墜落事件です。その年の9月27日(火)アメリカ海兵隊のファントム戦闘機が横浜市緑区の住宅地に墜落し、火災が発生して市民9名が死傷しました。その中に3歳と1歳の兄弟がいました。二人は全身に火傷を負い翌朝までに相次いで亡くなりました。子どもたちは何度も「水をちょうだい」と訴えましたが医師から許可されず、最後に「パパママバイバイ」と言って亡くなったと伝えられています。26歳だった母親も全身に大やけどを負い、70回にも及ぶ皮膚移植手術を繰り返しながら長期間入退院を繰り返しました。そして事故から4年4か月後に亡くなりました。何とも痛ましい事件です。

横浜市の米軍機墜落事故 1977年9月27日午後1時すぎ、米海軍厚木基地(神奈川県大和市、綾瀬市)から洋上の空母に向かう米軍機が離陸直後に横浜市緑区(現青葉区)の住宅地に墜落。近隣住人の土志田(どしだ)和枝さんの長男=当時(3つ)=と次男=同(1つ)=は事故直後に死亡。和枝さんは発生した火災で大やけどを負い、皮膚移植の手術を繰り返したが、4年4カ月後に呼吸困難のため31歳で死亡した。事故では土志田さん親子3人を含む9人が死傷した。脱出して無事だった乗員の米兵2人は刑事告訴されたが不起訴となった。

東京新聞Web版より

家族のことはメディアでも大きく報じられ、作家の早乙女勝元さんは子どもたちの最後のことばをタイトルにした『パパママバイバイ』という絵本を書き、のちに映画にもされました。

当時私は事故があった県内の学校に勤務していました。教員になったばかりです。身近に起きた事件だけに衝撃的でした。子を失い、自らも全身やけどで皮膚移植を繰り返したお母さんの苦しみを思うと胸が痛みました。でも事件後も米軍の飛行機は基地を離発着しており、授業をやっていても上空を飛ぶ飛行機の音がよく聞こえました。そのたびに私は生徒たちと事件のことを話しました。

そのことを書いた以前の記事です↓

私のやけどは私自身の不注意によるものです。でも母子のやけどは本人たちの責任ではありません。苦しみの度合いも私とは比較になりません。なぜこんな不条理を味わうことになったのか。同じような苦しみを味わう人は他にも数えきれないほどいるのではないか。指先の小さなやけどがそんな人たちのことを私に考えさせました。


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