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私のカルチェラタン:新任教師のパリ研修 3

南回りの空の旅 バンコク~カラチ


パキスタン航空機は予定通りバンコクを離陸した。ふと周囲を見回すと空席が目立つ。バンコクで多くの人が降りたらしい。代わりに乗り込んできた乗客は東南アジアの人らしき人が多い。その中で私の周囲を埋め尽くす不思議な雰囲気の一団に目が向いた。ぞろぞろと連なって乗り込んできたその一団は巡礼グループのようにも見えたが、一種独特の感じの集団だった。身に着けている衣服はとてもみすぼらしく、老人から子どもまで白い布をまとっただけに見える。その一方で、高級そうなスーツを着こんだ紳士や優雅なドレス姿の女性がわずかにいる。私の並びに座った老夫婦と子どもが目に留まった。10代半前半に見えるその子どもは老夫婦の孫のようにも見えるが、孫と言うにはどこか違和感がある。かと言って息子のようでもない。重そうなかばんをいくつも携え、二人のあとからおずおずとついてくる。男性に言われるまで席に座らず、横にじっと立っている。座るように言われてからも何かと夫婦の世話をし、片時も休む様子がない。まるで召使のようだ。「どういう関係なのだろう」 そんな私の疑問を察したかのように、添乗のW氏が小声で私にささやいた。「あの子は多分買われた子ですよ」と。貧富の差が大きい東南アジアでは子どものない金持ちが、貧しい家の子どもを買って召使にするケースが多いという。そう言われると若者のぎこちない動きが理解できる。南回りならではの貴重な体験かもしれない。長時間の飛行にいささかうんざりしていた私だが、南回りもまんざら悪くないという気持ちになった。

やがて飛行機はパキスタンのカラチに到着した。乗ってきた便はここが最終地だ。みんな手荷物を持って機外に出た。私たちはここからロンドン行きのジャンボ機に乗り換える。乗り継ぎロビーに向かうと、白装束の集団はカラチで降りるらしく入国カウンターに向かうのが見えた。

ロンドン行きの出発まで5時間ある。空港の外に出ることもできるが、初めての国なのでどこに行ったよいかわからない。それにパキスタンでは少し前に軍事クーデターが起きたばかりだ。何が起きるかわからない。現に空港も物々しい雰囲気に包まれている。私自身もこれまでの長い飛行でぐったり疲れている。ツアーの仲間も同じような状態らしく外に出る人はだれもいない。皆で固まってロビーの椅子に腰を下ろし、ただ時が過ぎるのを待った。壁の時計は10時を指しているが、私の腕時計は2時だ。時間の感覚がさらに麻痺してくる。

パキスタンのクーデターについて↓

1977年、選挙で勝利したズルフィカール・ブットー率いる人民党に対して、選挙の不正を指摘した野党が大規模な抗議運動を展開した。これが暴動などの混乱を引き起こすと、じあうる・ハック陸軍参謀長が軍事クーデタで政権を掌握し、自ら大統領に就任してしまった。まもなくブットーを処刑し、それから約10年間軍部独裁が続くことになった。この間、ムスリム諸団体からの支持を狙い、ジャマーアテ・イスラーミー(イスラーム同盟)の代表的人物を閣僚に加えるなど、政治に対する「イスラーム原理主義」の影響力が増していった。憲法も停止され、司法面でもイスラーム化・政教一致が進んでいった。

Wikipediaから一部引用


ロビーにはこれと言って退屈しのぎになるものはない。ひたすら座って時が経過するのを待った。近くの人と話をするが、まだお互いをよく知らないので話も弾まない。やがて猛烈な睡魔に襲われた。いつしか眠りに落ち、気が付くと1時間半ほどが経過していた。だが、出発までまだ3時間以上ある。何もすることがないのは苦痛だ。再び周囲の人たちと話を始める。どこから来たのか、学生か社会人か、パリでは何をしたいかなど、ぽつぽつととりとめもなく話す。次第に打ち解けていく。そもそも、人と人が初めてかわす言葉は何でもないことが多い。居住地、職業、年齢、趣味、ときに天候で始まることもある。そして、日本人の場合はこうした小さな情報で相手の「品定め」をすることが多いのではないか。たとえば、「東京在住、商社勤務、28歳、ゴルフが趣味」と聞くと、何となくその人がどんな人間か想像できる。そして、自分と似たような属性だと親近感が湧く。その途端に話が弾み始める。面白い現象だ。だが、外国人の場合は違う。仕事や年齢が同じであっても同類と考えることは少ない。個人としての存在が重視される度合いが違うように思う。

そんなことを考えているうちに、次第に窓の外の空が白み始めた。朝が近づいてきた。5時半、ロビーのテーブルに朝食が準備され始めた。出発前の腹ごしらえだ。だが、席についたところまではよいのだが、私たちのテーブルにはいつまでたっても食事が運ばれない。隣のテーブルの人たちはもう食べ始めているのに。「どうなっているのだろう」と周りをきょろきょろ見回した。そして気づいた。広い部屋の中でサービスをするボーイが1人しかいないのだ。ボーイは忙しそうに動き回っている。目まぐるしい動きだ。だが、ホールの中を走り回る彼はにこにこしている。日本にいたら「早くして!」と文句のひとつも言いたくなるところだが、彼の笑顔を見ているとそんな気持ちはどこからも沸いてこない。

でも、食事がなかなか運ばれてこない状況は変わらない。  そのうちやっと運ばれてきのは目玉焼きにベーコン、トーストとポットに入った温かいコーヒーだ。トーストは大皿に乗せてあり、各自で自分のさらに取る。私は空腹だったのですぐに食べ始めた。ところが、向かいに座っている女性はなかなか食べようとしない。彼女は自分のパン皿を穴の開くようにじーっと見つめている。そして「これ見て」と言って私の前にその皿を差し出した。最初は何が言いたいのかよくわからなかった。だが、注意して見ると皿にうっすらとほこりがたまっている。私も念のため自分の皿を見てみた。彼女のほどではないがほこりは見える。だが気になるほどではない。「こんな国もあるんじゃないの?」と言いながら私は皿を彼女に返した。そして、自分の皿を一応ナプキンで拭き、パンを乗せた。

彼女はほこりがよっぽど気になったのだろう。まだ皿をあちこちの方向から眺め、ほこりの程度を指先で確認している。ちょうどそこに先ほどのボーイが通りかかった。怪訝そうに皿を見つめる彼女を見て彼は不思議そうな表情をした。だが彼女の指のしぐさで状況を理解したのだろう、ニコッとしながら彼女の皿を手に取ると、奥に引っ込み新しい皿を運んできた。そして、いたずらっ子のようにウィンクしながら皿を両手で恭しく彼女の前に置いた。彼の勝ちだ。私はそう思った。

やがて搭乗時刻になった。機体までは歩いての移動だ。空港ビルの外に出た私たちは銃を肩にかけた兵士たちの物々しい警戒の中を無言で歩いた。異様な雰囲気だった。







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