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私のカルチェラタン:新任教師のパリ研修 15

エピローグ

林芙美子の『下駄で歩いた巴里』を再読したことがきっかけとなって書き始めた40年以上前のパリでの研修記録。段ボールの中でずっと眠ってた当時の日記、劣化した写真、そしてあやふやな記憶を頼りに書いてきました。最終回は2023年の現在から当時を振り返り、若かりし頃のパリでの滞在が私にとってどのような意味を持っていたのか考えてみました。

私が初めフランスに行ったのは教師になって2年目の夏でした。何の苦労もなく大学生活を送っていた私は、教師となって大きな戸惑いを感じていました。もともと私は教師をめざしていたわけではありません。むしろ教師にはなりたくないと思っていました。小中学校で出会った先生たちを見てそう思いました。もちろんよい先生はたくさんいましたし、大好きな先生もいました。でも自分が教師になろうと思ったことはありませんでした。「教師」という衣装を身に纏った先生たちはどこかみんな同じように見えました。自分を抑えているようにも見えました。こじんまりとまとまっていて大胆なことをする人が少ないように思いました。特に教師になるための教育を受けてきた先生にそれを強く感じました。もちろん子どもである私の目からそう見えただけかもしれませんが。

そんな私が教師になろうと思ったのは大学4年の時です。教育実習で母校の中学校に行き、生徒と過ごした2週間がすごく楽しかったのです。単純なきっかけでしたがそのとき私は教師になろうと決めました。
 
でも実際に教職に就いてみるといろいろなことにぶつかりました。教えられる立場から教える立場に変わったことで見え方が変わりました。赴任したのは新設2年目の学校です。先生たちはやる気いっぱいでした。若い教師もたくさんおり、活気もありました。生徒たちも明るく元気いっぱいで、私たちのような年齢が近い教師は特に友達のような関係でつながっていました。それを批判する先生はもちろんいましたが、当時の生徒の中にはそれ以来ずっと関係を保っている人が何人もいます。楽しい毎日でした。

でも教師となれば様々な課題にぶつかります。教育実習で味わった楽しさだけではありません。仕事への期待と現実とのギャップに戸惑いました。人間関係に悩むこともあり、学校という社会にも建前と本音が交錯することを知りました。部活第一主義の雰囲気や日常的に行われる体罰、「体育連盟」という不透明な組織、地元の教員養成系大学の目に見えない人脈などにも疑問を感じました。さらに、教師として未熟な自分への苛立ちもあり、私の中では様々な思いが渦巻いていました。

そんな中でフランス行きを決めた一番の理由は日常生活から遠く離れた海外に身を置いて自分を見つめ直したかったからです。フランスは高校生のころからあこがれていた国でしたし、フランス語を学び始めたころから必ず行こうと心に決めていました。研修というかたちは取りましたが私にとっては自己省察の旅でした。
 
40日間のパリでの生活は刺激的でした。フランス語の授業だけでなく、いろいろなところに行き、いろいろなものを見て、いろいろな人に会いました。数多くの体験をする中で楽しいことは山ほどありました。その一方で辛いことや悔しいこと、怖ろしいことも体験しました。でも毎日が新しいものとの出会いでした。ソルボンヌの講座では世界各国から来た人たちと交流しました。教会での敬虔なひととき、夜の町での恐怖体験、美術館や博物館で出会った数々の芸術品、すべてが私を成長させる糧となりました。研修を終えたときには自分がひとまわり成長したように感じました。

その後も海外はたびたび出かけています。生徒を引率していくこともありましたし、自分自身の研修として行くこともありました。個人旅行もあります。教員にとって異文化を体験することはとても大事なことだと思いますし、必要なことだと思います。私にとってその原点は教職2年目のパリ研修だったと実感しています。
 

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