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短編「バックスクリーンを振り返ると」

集英社短編小説新人賞応募作(落選)

箸にも棒にもかからぬ作品でしたが、供養のつもりで投稿いたします(応募時のままです)。
ご感想頂ければ、泣いて喜びます。

本文(原稿用紙30枚)

 ぎらぎらとした太陽が、甲子園球場の小高いマウンドを照り付けている。バックスクリーンの時計によると、時刻は午後二時五十六分。試合は早いペースで最終回を迎え、超満員の観客席は騒然としていた。数万人の観衆の誰もが、自分たちが歴史的な記録の目撃者になろうとしていることを理解している。

 相手側、三塁側アルプススタンドではチアガールが列をなし、吹奏楽部が『紅』をかき鳴らし始めた。応援団は猛暑をものともしない超長ランを着込み、声を張り上げている。悲壮感すら漂うその姿も無理はない。彼らは春夏連覇を目指す下馬評トップの優勝候補。対する俺たちは十数年ぶりに甲子園出場を果たした古豪。まさか初戦でこんな状況に陥るなど、彼らは夢にも思っていなかっただろう。

 俺は右手で日差しを遮りながらその様子を一望し、大きく深呼吸をする。

 ああ、暑ぃなぁ。疲れた。肩が重てぇなぁ。

「おい、どうした? 伊波(いば)」

 ホームから近寄りつつ声をかけてきたのはキャッチャーの朝比奈(あさひな)先輩だ。投球練習が終わっても俺がぐずぐずしていたので、心配になったのだろう。マスクを上げた顔は青ざめていて硬い。その顔が心配そうに俺を見る。

「どっか痛むのか?」

「いえ」俺は首を振って苦笑を返す。「すんません。さすがにちょっと緊張して」

 俺の答えに、先輩は真っ青な顔のままで作り笑顔だ。黒の縦じまのユニフォームは泥だらけで、先ほど八回裏の得点の激走ぶりを物語っている。彼がもぎ取った虎の子の一点だ。守り切れば俺たちの勝利、大金星である。

 そして、この試合はそれだけではない。

「まあ無理もねえ。夏は史上初だからな」

 その言葉に釣られてスコアボードを見る。

 スコアは1―0で後攻の俺たちがリード。先攻側にはゼロ、ゼロ、ゼロ――一回から八回まですべて綺麗にゼロが並んでいる。ヒットの数もエラーの数もゼロ。そしてこれから始まる相手の攻撃は七番から。つまり――

「完全試合だなんて、あんま意識すんなよ。記録はどうあれ、ホームを踏ませずにあと三つアウトとりゃいいんだから。な?」

 おっしゃる通り。だが、生まれたての小鹿みたいな足でそんなこと言われても説得力はない。まあ、そんなこと軽々しく指摘できないのが、エースとはいえ後輩の辛いところだ。はい、と素直に俺は右手のグラブを差し出し、先輩のミットと突き合わせる。

「打たせてきますんで。頼んます」

「おう。頼れ、二年坊。皆が付いてるぞ」

 でも後ろを振り返れば、守備についている仲間たちも誰も彼もが落ち着かなさそうだ。

 おいおい皆、エラーは勘弁してくれよ? 記録以前に、そいつが一生もんのトラウマを抱えることになりかねないんだから。

 甲子園大会をたかが高校野球の全国大会と言うなかれ。全試合が全国中継されている上、SNSや夜のスポーツニュースで、完全試合をふいにした自分のエラーが取り沙汰されることを思えば、誰だって冷静ではいられない。

 それはもちろん俺だって同じだ。四死球にせよ打たれるにせよ、どっちにしたって悲劇の主人公扱いは間違いない。パワプロなら『寸前×』の特殊能力ゲット確定だ。

 ああ、嫌だ。誰か代わってくれねぇかなぁ。

 ベンチを見やれば、監督は口を真一文字に引き結んでじっと俺を見ている。

 いけるか? はい、いけます。

 攻撃中のベンチでの会話を思い出す。当たり前だ。いけます以外に答えの選択肢なんてあったか? パーフェクト直前のピッチャーのリリーフなんて誰がしたいっていうんだ。

 不安と緊張に心臓が早鐘を打つ。震える足を睨みながら、俺は自分に落ち着けと言い聞かせる。すると――

 どん、と尻のあたりを誰かに叩かれた気がして俺は振り返った。でも、誰もいない。朝比奈先輩は駆け足でホームの方へ向かっていて、マウンドに残っているのは俺一人だ。

 参った。幻覚とかいよいよヤバいわ。

 叩かれた尻のあたりにはポケットがある。苦笑交じりにそこに手を突っ込むと、指先にざらりとしたフェルトの感触を感じた。

 中にあるのは手作りのお守り。黄色に野球の硬球柄の、お世辞にも縫い付けはきれいとは言えない素人感満載のそれは、甲子園出発の前に幼馴染の六道(りくどう)慧(けい)からもらったものだ。

「もう無理、限界、飛びてーって思ったら、これを握りなよ。助けてあげる――」

 耳元であいつが言っているように、それは聞こえた。

 もう無理、限界、飛びてー。

 俺はお守りをポケットの中でぎゅっと握り、マウンドの足場をならす。そして、ここにいるはずもないあいつに、聞こえるはずもない小さな声で呼びかける。

 助けてくれよ、慧。なんてな――


 慧といつ出会ったのか、それは俺たちの記憶にはない。俺たちは保育園の乳幼児クラスのときから一緒で、年次が進んでもそれは不思議と変わらなかった。

「りっくん、こっち!」

 そう言って、あいつはいつも俺の前にいた。女だてらに活発な奴で、そういや園庭ではジャングルジムがお気に入りだったっけ。昔から高いところが好きで、いつもぐずぐずしている俺に手を差し伸べ、引っ張り上げてくれたものだ。

「ほら、りっくん。泣かないの。男だろ!」

 それがあいつの口癖だった。いつも前にいて、俺の手を引いて、何をするにも先にいた。

 当時の俺はいつもあいつの陰に隠れていた。傍から見ると、俺たちは姉弟のようだった。

 野球を始めたのは小学二年生の時だ。

 言い出したのは慧だった。

「私、甲子園行くの!」地元プロ球団の青い野球帽を被り、慧はジャングルジムの頂上で胸を張った。「りっくんも、一緒に行こう!」

 あいつがどうして突然そんなことを言い出したのかは謎だ。本人に聞いても教えてくれなかったし、単なる思い付きかもしれない。

 ともかく俺は黙って頷いた。慧がやるなら付いて行くのが当然の流れだったからだ。甲子園に女子が出られないことも、古い考えの大人が「女の子なのに」と眉をひそめたのも、当時の俺たちには関係のない話だった。

 実際、慧はすぐにそんな周囲の声を黙らせた。四年生になる頃には、女子ながら遠投も足の速さもチームで一番で、左利きということもあって、そのままエースピッチャーに抜擢された。

「律樹(りつき)。お前はライトでリリーフだ。慧がピンチになったら、お前が助けるんだからな?」

 監督のその言葉にも、俺は黙って頷いた。

 慧は俺と一緒に試合に出られることが嬉しかったらしい。人数不足もあって四年生で背番号をもらえたのが俺たち二人だけだったし、そのことを無邪気に喜んでいた。

「頑張ろうね!」と喜ぶ慧。俺はその隣で仏頂面。当時の写真はそんなのばっかりだ。その頃になると俺はすでに泣き虫を卒業していて、慧の背中に隠れるばかりではなくなっていたのだ。身長は伸び、遠投も足の速さもバッティングも上級生に負けてなかった。

 ただし、慧の次に。

 慧さえいなければ俺がエースなのに。

 それが悔しくて、いつの間にか俺は徐々に慧のことを遠ざけるようになっていった。


 やがて中学一年になり、俺は当然のようにそのまま地元の公立中学の野球部に入った。

「伊波(いば)律樹(りつき)です。よろしくお願いします!」

 横一列に並んだ新入部員たちを、同じく向かい合って並んでいる先輩たちは値踏みするように見ている。小柄な壮年の監督は俺の姿を見上げて、小さく何度か頷いた。

「君、でかいなぁ。期待してるぞ」

「はい!」

 大きく返事をすると監督は俺の肩を叩く。そして隣に視線を移した瞬間、微かな驚きに目が丸くなった。

 まっさらな練習用ユニフォームを着た慧が、そこには立っていた。

「六道慧です。よろしくお願いします!」

 監督も含めた全員の奇異の目など委細構わず、慧は元気よく声を張る。

 明らかな戸惑いの空気がその場に広がっていた。それはそうだ。俺の肩ほどもない背の、猫のように大きな目をした細身の女子は、明らかに場違いだった。

「なるほど、君が……」と、監督はため息を漏らす。「確かに女子だから入部できないっていうことはないが――」

「大丈夫です。体力は男子以上ですから!」

 監督の言葉を遮るように言って、慧は背筋を伸ばしたままにっこりと微笑む。あっけにとられた監督は対照的に渋い顔だ。

「……軟式とはいえ、あまり無理しないように。怪我にだけは気を付けて」

「はい! よろしくお願いします!」

 慧が一礼し、自己紹介はさらにその隣へと進んでいった。

 やがて皆の視線が列の端の方へ向いていくと、慧がちらりと横目で俺を見た。

「追い返されたらどうしようかと思ったよ」

 小声でそう言って片眼を瞑る。俺は小さくため息を返した。

「腫物扱いは覚悟の上なんだろ」

 どんな中学でも選手としての女子の入部はなかなか珍しい。少年野球の経験者でも大抵はソフトボールに流れるのが常だ。入部を許されないところもある分、ここは寛容である。

「まあね、知ってたし。別に平気」慧は不敵な笑みを浮かべ、帽子のつばをぐっと下げた。「見てな。すぐエースの座を奪ってやるから」

 自信たっぷりに言い切る慧に、俺は思わず舌打ちをする。

「ん? どしたの? なんか怒ってる?」

 不思議そうに小首を傾げる慧から視線を逸らし、俺はぐっと拳を握り締めた。

 見てろ。いつまでもお前の控えじゃねえ。

 エースになるのは俺だ。

「別に」

 俺はそう吐き捨てて、それきり口を噤んで同級生の自己紹介を黙って聞いていた。


 俺の中学は公立ながら県内では強豪だったので、練習は当然のように厳しかった。同級生が何人も辞めていく中、俺はエースどころか日々の練習についていくのがやっとだった。

 俺は、俺なりに必死で練習したと思う。でも、二年生になっても俺は控え投手にもなれず、外野手としても補欠にすら手が届かない有様だった。

 そんな俺を尻目に、慧は一年生の秋の新人戦からベンチ入りを果たし、二年になるとチームのエースとなった。ここでもあいつは並みいる男子たちを向こうに回して、言葉通りに背番号一を勝ち取ったのだ。

 練習はレギュラー組と控え組、それ以外で別れ、俺たちが一緒にいる時間はほとんどなくなった。

 でも、俺はもう悔しくなかった。日々の練習は惰性になり、悔しさはすでに自分の才能に対する諦めに変わっていた。

 天才って、本当にいるんだな。あいつは女なのに。もしかしたら、本当にルールなんてぶっ飛ばして甲子園に出るかもしれない。

 そんな羨望と嫉妬、もやもやした行き場のない感情を抱えながら、俺は腐り始めていた。

 そんな中、夏の大会の直前に問題が起きた。

 慧のピッチングが、目に見えて精彩を欠くようになったのだ。


「お前さ。最近、抜いて投げてるだろ?」

 地区予選の試合の前日、投球練習の相手をしていた俺は慧に声をかけた。

 グラウンドでは仲間たちが監督のノックを受けていて、こちらを気にかける様子はない。正捕手も二番手もそちらに回っていて、たまたま慧のボールを受けられる奴が他におらず、俺が相手を申し付けられたのだった。

 俺が投げ返したボールを受け取ると、慧は憮然として口を尖らせ、振り被った。

「そんなことないよ」

 投げられた球を受け取り、俺は首を傾げる。

「じゃあ、なんでこれが試合でできねんだよ」

 ボールを返すと、慧は悪戯っ子の様に含み笑いする。

「うーん、なんかさー、りっくんがベンチにいないと調子が出ないんだ」

「なんだよ、それ。気持ち悪ぃこと言うな」

「本当だってば……あ、そうだ。監督に言ってみようか。りっくんをベンチ入りさせてくれって。出ないと私、全力出せないって」

 その瞬間、全身の血が沸騰したように意識と感覚が遠ざかり、俺はへらへらと笑う慧に、無言で近寄る。

「りっく――」

「……テメエ、いい加減にしろよ」

 気が付けば俺は慧の胸ぐらを掴み、持ち上げていた。その身体はとても軽くて、想像以上に弱弱しくて、俺はすぐに我に返る。

 慧にしてみれば自分の不調を肴にした冗談のつもりだったのかもしれない。多分、他の誰かが同じことを言ったなら、ここまで腹は立たなかっただろう。

 慧にだけはそんな風に侮られたくなかった。

 同時に、俺は驚いていた。自分のしでかした行動に。自分の中にまだ、こんなにも悔しさが残っていたことに。

 ふと周りを見ればさっきまでノックを受けていた連中も監督も、グラウンドにいた他の部の奴らまで、皆が俺たちの方を見ていた。

 慧は目を見開いていた。その目にみるみる涙が溜まっていく。それを零さないようにぐっと奥歯を噛んでいるのが、俺には分かった。

 針のような視線が俺に集まり、明らかに気まずい空気がその場に漂う。俺は慌てて手を放し、逃げるようにグラウンドを後にした。

 結局、俺はこの一件で監督からこっぴどく叱られ、二週間の部活禁止を命じられた。後に知ったが、地区予選は一回戦負けを喫したらしい。慧の調子は戻らず、先輩たちが打つ以上に、あいつは打ち込まれたのだそうだ。

 そして、俺が部に復帰した時、慧は練習に来ていなかった。部を辞めたのだという。

 一瞬疑ったが、俺のせいではなかった。理由は部活を終えて帰宅したときに判明した。

 試合の翌日から慧は入院していたのだった。


「あれ、どうしたの? りっくん」ベッドで雑誌を読んでいた慧は目を丸くして言った。「練習は? あ、さぼったな。悪いんだ」

「さぼってねえし。終わってから来たんだ」

 からかう様に笑う慧に、俺はここが病院であることを一瞬忘れそうになる。それくらい慧の様子は普段と変わらなかった。ちょっと気まずくて構えてきたのが馬鹿みたいだ。

 病室は個室で割と広かった。昼の光を遮る白のカーテンとテレビ、棚と椅子があるだけの殺風景な空間で入院服を着た慧は、普段着やユニフォーム姿の彼女と同じに見えた。俺はそれに少し安堵しながらベッドに近づく。

「お前さ、入院するなんて聞いてねえぞ」

 俺が不満たっぷりに言うと、慧は申し訳なさそうに首をすくめる。

「ごめんごめん。言ってなかったっけ」

 お前なぁ、と突っ込みかけて、俺は盛大にむせる。午前中の練習を終えてからすぐに自転車をかっ飛ばしてきたので、喉がカラカラだった。エナメルのスポーツバッグから水筒を出して一口飲み、ため息をつく。

 慧は「子供か」と突っ込みつつ苦笑した。

「まあ、ほら。そんな大げさなもんじゃないからさ。単なる検査入院だよ」

「……検査? どこか、悪いのか?」

「それを検査してるんでしょ。馬鹿ねぇ」

 それはそうだ。だが心配している幼馴染に向けて『馬鹿』はないだろ。そもそも普通なら検査入院なんてそうそうするもんじゃない。前々からその兆候があったに違いない。

 俺はそこではたと気づく。

「お前、最近調子悪かったの、それか?」

 睨む俺に慧はばつが悪そうに舌を出した。「まあ、そんなとこ」

「お前なあ……そんなんで、どうして試合なんか出たんだよ」

 んー、と慧はぶりっ子みたいに首を傾げる。

「そりゃあ私、エースだもん」

 悪びれもしない慧に俺は思わず舌打ちする。

「スコア見たぞ。あんなザマでよく言えたな」

「それは返す言葉もない。でも、言い方!」

 べえ、と慧は舌を突き出す。そのひどい顔に俺は思わず吹き出し、慧もまた同じく笑って、しばらく二人でけらけらと笑う。やがて笑いの発作がだんだんと収まり、俺は何の気なく慧の顔を見て、ぎょっとした。

 慧の目からするりと一筋の涙が流れるのが見えたからだ。

「あ、あれ?」慧にとっても、それは思いもよらないことだったらしい。慌てて両手で涙を拭い、再びけらけらと笑う。「参ったなぁ。コンタクトがずれたのかも」

 嘘だ。慧の視力にコンタクトなんていらない。でも俺は何も言えなかった。そんな嘘がするっと口をついてしまうくらい慧は動揺しているのだろう。

「いやあ、あれだな。今になって悔しさが沸々と戻ってきたっていうか。うん、悔しい」

 ぱちぱちと自分の頬を叩く慧。鼻をすすって照れ臭そうに笑う顔は、まるで普段の慧だ。

 でも――背筋にぞくりと悪寒が走り、俺は慧の顔をじっと見つめる。

 そういえば、少し痩せたか? お前。

「……あとどれくらいで退院すんだ?」

 頭に浮かんだ疑念を頭の隅に追いやり、俺は努めて明るく訊ねる。そうしないとその不安が現実になってしまいそうで怖かった。

「んー、一週間くらい、かなぁ」

「……そっか。学校は?」

「そりゃ普通に行くよ。夏休み終わったら」

 本当だな、と喉元まで出かかって、どうにか飲み込む。代わりに――

「……本当に辞めんのか、部活」

 そう問うと慧はどこか清々しささえ感じるすっきりした表情で「それなぁ」と首を振る。

「いや、私は平気なんだけどさ。一応、激しい運動はお控え下さいって言われてるし」

「なにも辞めることねえだろ。マネとかさ」

「選手でいられないなら、いる意味ないよ」きっぱりと慧は言い放つ。「私は、野球がやりたいの。見ていたいわけじゃないんだ」

 なんでそこまで、と言いかけて俺は口を噤む。慧の黒々とした大きな目がじっとこちらを見ていて、俺を黙らせた。

「甲子園、行きたかったんだ」そしてその目がどこか遠くを見るように窓の外へ向けられる。「子供の頃、急に言い出したからびっくりしたよね。理由なんかよく分かんない。でも、なんか憧れがあるんだ。おかしいよね」

「……別にそんなことはねえよ」

 でも、と俺が先を口にするのを手で制し、慧は苦笑交じりに頷いた。

「分かってる。ルール上無理なことくらい。でも男子顔負けの実力になったら特例貰えるかもって。昔そんな野球漫画が家にあったんだ。だからワンチャン私もって頑張ってきた」

 その結果、慧は並みいる男子たちの、県の選抜にも選ばれるような連中を置き去りにして、エースの座に君臨した。そのために慧がどれほど努力したかは、俺だって知っている。

 知ってるさ。才能なんて言葉で片づけられるほど、お前の努力が安くないなんてことは。

 でも、と慧はこちらを向いた。俺はその顔をじっと見つめ、どうしようもなく胸が痛む。

 どこかで見たことのある顔だ。それは諦めた者の顔だった。俺の顔だった。

「もう頑張ることもできないんだ、私。お母さんが隠れて泣いてるのもバレバレだし。漫画みたいなこと言うけど、自分の身体だもん。なんとなく分かるんだよ。駄目そうだなって」

 俺はその言葉を黙って受け止める。言えることなんてない。何を言っても無意味だ。

「ねえ、りっくん」

 そのまっすぐな呼びかけに、俺は目を逸らしたくなるのを必死に堪える。

 やめろよ、慧。そんな目で俺を見るな。

 その目に映る感情は誰よりも理解できる。

 羨望。嫉妬。諦観。

「悔しいよ、りっくん……理不尽じゃん。なんで私がこんな目に合わなきゃならないの?」

 慧の目から、するりと涙が零れる。今度はそれを隠そうともしない。

「りっくん、あの時、いい加減にしろって私に掴みかかったよね。私、泣くほど嬉しかったよ。りっくん、悔しいんじゃん。ずっと、私に引っ張り込まれて、嫌々野球やってるんだって思ってたから。毎日、なんとなく野球やらされてるんじゃないかって思ってたから」

 あの日の光景が頭に浮かぶ。記憶の中の泣き顔の慧と、目の前の慧の顔が重なる。

 違うよ、慧。きっかけはお前の後にくっついてっただけだけど、今は違うんだよ。俺は、お前に勝ちたいって、ちゃんと思ってたよ。

「ねえ、りっくん。そんな気持ちがあるなら、頑張りなよ。ううん、頑張ってよ。私の代わりなんて押しつけがましいこと言わないけど、自分が悔しいなら、自分のために頑張りなよ」

 そこで慧は、堰を切ったように嗚咽を漏らす。それはため込んでいた不安と、恐怖と、怒りと、嫉妬と、諦めと、すべてがないまぜになったような感情の濁流だった。

「でないと、私、りっくんのこと嫌いになっちゃうよ。その身体寄越せよって、私に頑張らせろよって、怒鳴っちゃいそうだよ。うらやましくて、妬ましくて、顔見るだけで嫌になっちゃいそうだよ」

 蝉の声と慧の嗚咽が響く病室で、俺は黙って彼女の言葉を受け止める。やがて、落ち着きを取り戻した慧は深呼吸をして、「ごめんね、変なこと言って」と小さく呟いた。

 俺は黙っていた。黙って、両手を握り締めていた。拳の中に爪が突き刺さる痛みと共に、頭には少年野球の頃の監督の言葉が浮かぶ。

「律樹(りつき)。お前はライトでリリーフだ。慧がピンチになったら、お前が助けるんだからな」

 分かってるよ、監督。

「……慧」

 そういえば名前で呼んだのはいつ以来だろう、なんてことをふと思い出す。意識してみると急に顔が熱くなった。自分がこれから、どれだけ恥知らずな大言壮語を吐くのかという自覚もまた、それを手伝った。

「俺、甲子園に行くよ。頑張る。死ぬ気で頑張るから。だからさ――」俺は慧に右手を差し出した。「一緒に行こう。助けてくれよ」


 その後、慧は普通に退院して、学校に来た。表面上、さして体調に問題はないように俺には思えたし、誰も慧が入院していたことをさして気にしていなかった。

 新学期が始まるなり、慧は俺のところにやってきて、ノートを見せてきた。

 中身は練習メニューだ。かわいらしい丸文字で書かれたそれは、控えめに言って、ちっともかわいらしくない代物だった。

「……やれって、ことだよな?」

「うん。練習後に」

「……嘘だろ? 殺す気かよ」

「死なないよ。私はやってた」にやりと不敵に笑って、慧は俺にノートを押し付ける。「死ぬ気で頑張るんでしょ。ちゃんとやって」

 ……俺は、ちゃんと死ぬ気でやった。

 そうして一年後の中学三年の夏の大会、全国をあと一歩で逃したものの、俺は背番号一を背負い、かつて県内では甲子園の常連だった高校から誘いを受けるほどの活躍を見せた。それは周囲の誰もが驚く急成長だった。

 でも慧は「当たり前じゃん」とにべもなく言った。そして「もうちょっとメニュー増やすかなぁ」とさらりと続けた。

「だって、全国逃してるじゃん」

 ごもっとも。この時のメニューを思い出すだけで、俺の足は生まれたての小鹿みたいになる。

 それから卒業までの間、俺は慧の作ったメニューをこなし、春になると野球部の練習に参加した。高校の練習は慧の作るメニューよりもいくらか楽だった。そのおかげか、春季大会の後で俺は一年生にしてベンチ入りを果たすことになる。

 その頃になると慧と会う回数は少しずつ減っていった。慧は高校に進学せず、入院する期間が長くなっていたからだ。

「こら。練習しなよ、練習」

 週一回は顔を出していた俺を、慧はいつもそう言って追い返す。必ずその先に続く言葉はいつもこれだ。

「甲子園出場決めてきたら、その時に来なよ」

 俺はそれからも、そんな風に文句を言われつつも、大会期間中以外は週一で、彼女の家か病院を訪れた。

 一年経って、俺は二年生にして背番号一を得る。夏の大会を勝ち抜き、甲子園出場を決めると、久しぶりに彼女の元へ向かった。

 そして――


 俺はバッターボックスで構えている九番打者を睨む。そして振りかぶり、キャッチャーのミットに全力で投げ込んだ。

「ストライク、ツー!」

 観客席のどよめきがどこか遠くに聞こえる。よく聞こえないが、ベンチからは「あと一球だ」とか「腕を振れ」だとか聞こえてくる。

 分かってるよ、うるせえな。

 七番にはどでかい一発を打たれかけ、八番の当りはたまたまショートの正面だった。

 それもこれも、俺の放った球がとんだ棒球だったからだ。

 ああ、疲れた。もう無理。限界。飛びてー。

 俺は心の中でぶちぶちと弱音を吐きながら、足元のロジンバックを叩く。

 完全試合も勝ち進むのも、もうどうでもいい。甲子園来たじゃん。俺、超頑張ったぜ。一生分、努力したよ。もう、やめちまおう。

 でも心とは裏腹に、俺の身体は勝手に投球モーションに入る。先輩の出すサインに頷き、そして構えるミットに全力で投げ込む。

 きん、という背筋の凍るような金属音がして、白球がライト方向に飛んだ。振り返ると、それはあわやのところで白線の外、ファールグラウンドに転がった。

 心臓が早鐘を打つ。安堵と恐怖と、いっそヒットだったら文句なくマウンドを降りられたのにという口惜しさに、俺は鋭く息を吐く。

 審判から返ってきたボールを受け取り、俺は涙がどうしようもなく零れてくるのを、帽子をとって汗を拭うふりをして必死に隠す。

 くそ、今になって出てくんなよ、空気読め。


 甲子園出場を決めて、病室へ着いた俺を迎えたのは、すすり泣く慧のお袋さんと、その肩を抱く親父さんの姿。真っ白なベッドに横たわる慧と、白い掛布団と、顔にかけられた白い布。枕元には俺の特集がされた高校野球雑誌があって、かつて物凄い変化球を操っていたあいつの指先は絆創膏だらけで、信じられないくらい細かった。

 慧の治療がすでに緩和ケアに移行していたのは知っていた。そう遠くないうちに別れが来るのも理解できていたし、覚悟もしていた。

 でも、それはあまりに唐突だった。

 大会中は慧自身の希望で容態は知らされず、俺は大会が終わったら必ず会いに行くつもりでいた。会えると思っていたのだ。

「もう無理、限界、飛びてーって思ったら、これを握りなよ。助けてあげる、だそうだ」立ち尽くす俺に、親父さんは淡々と言った。「ありがとう。いつもあの子といてくれて」

 手渡されたのは、手作りのお守りだった。俺はそれをどう受け取ったのかは覚えていない。どう返事したのかも。


 ふと叫びたくなる衝動を、俺は歯を食いしばって必死に堪える。頬を叩いて現実を引き戻し、涙を拭って、ポケットのお守りを握る。

 助けろよ、慧。俺、頑張れねえよ、もう。

 涙が止まらない。先輩の出すサインが涙で滲んで見えやしない。

 中継ではなんて言ってんかな。泣いております、とか清原みたいに実況の人に言われてんのかな。ほっとけよ、こんなん泣くわ――

 突然、強い風が俺の頬を撫でる。それに釣られて俺はバックスクリーンを振り返った。

 嘘だろ、と呟きつつ思わず目を見張る。

「……慧……?」

 時計の上、国旗が風ではためいているその傍らに、女の子が座っている。俺の通っていた中学の制服を着て、俺のいた中学の野球部の帽子を被り、そこから肩までの癖っ毛が伸びたその少女は、両足をぶらぶらさせて、両手でメガホンを作り何かを叫んでいた。

 満員の歓声も、ブラバンの『ルパン』も、応援団の太鼓をも、全てをつんざくような、まるで俺にだけ聞こえるような大音量で、慧の声がグラウンドに響く。

「しっかりしろぉ、りっくん! 男だろ!」

 幻聴かと思った。でもそれはあまりにもはっきりしていて、あまりにも慧の声だった。

「私がついてるぞぉ! 死ぬ気で投げろぉ!」

 心の底がかっと熱くなる。幻覚でも幽霊でもいい。本当に助けに来やがった。つか、そんなに甲子園、来たかったのかよ、お前――

「うるせぇ。連れてきてやったのに偉そうに」

 俺は独り言ちて、先輩の出した最後の一球のサインに、力強く頷いた。

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