【 気持ちの良い曲がり方をする 】
まっすぐな性格こそ適正とみなされる風潮が苦しい。
いったん曲がった性格はそう易々と元には戻らない。
自分主導でなく環境のせいでそうなってしまっただけの曲がった性格の人たちはつねに敗北感を背負った生活を余儀なくされる。
かく言うわたしもその一人だ。
内的要因もたしかにあるだろう。けれどもまっすぐ生きてきたわたしが予想だにしなかった外的要因の多くで性格が曲げられてしまったのは紛れもない事実だ。本人にはどうすることもできない。
「自己責任」「運がなかった」そう切り捨てるのは容易い。
しかし切り捨てられる側の当人からみれば死活問題だ。理不尽な世の中の裁きを喰らい、ただただ暗く澱んで誰にも毒付きながら沈んでゆく他ないのだろうか。
幸か不幸かわたしにはまだ憎みきれない人の良さが残っていた。このままではいけないと這いあがろうとする理性が残っていた。
曲がってはしまったけれど、紆余曲折しながら軌道を正そうともがいている。
最近では、気持ちの良い曲がり方ができないものか と策を弄している。
一案は、完全に顔を分けてしまって裏アカで隠し通すことだったが、この世の中そう簡単にバレないことはない。たとえやましい内容でなくとも できれば弱い泣き顔は晒したくないもの。いずれバレるであろうことがストレスの種であった。
だが二案目にして気が楽になった。深く掘りたい者は掘らせておけばいい。ある種それは潜在的に望んでいることである。
なんでもかんでも掘りやすくはしないが、掘れるようにはしておく。大々的に見せたい明るい一面とニッチに垣間見せたい暗い一面。光の当てかたでどっちも見れるようにしておく。
たしかにまっすぐな性格で生き通せたなら それがベストである。しかし そうはならない深刻な事情があることを多くの人が見て見ぬフリをしている。
曲がってしまったとてわれわれはまだまともに生きられる。
やましい曲がり方さえしなければ、人に見られても気持ちの良い曲がり方なのであれば、それはそれで適正ということなのだ。
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